メニューヘ

 

 

 

 

▼メニュー


「ゆとり教育」ノート

三浦@int

教育関連サービスを提供する業者(?)の一員として、教育行政の施策は、商売に直結するだけに大変興味がある。「ゆとり教育」とは何か。学校教育では何が起きているのか。
学校教育は久しく聖域的に扱われてきた。知識・技術の伝達にとどまらず人間育成の側面を持ってきたからからである。だが、社会の変遷とともに、教育に対する考え方も大きくかわってきたように思う。近年の「ゆとり教育」にまつわる状況をまとめてみた。


1.業者テスト問題
を契機としてはじま
った


2.学校・教育病理現


3.だか、学力低下

4.「学力低下はない」
という立場

5.第3の立場

6.「学力」とは何か

7.学習意欲減退・学力
の低下の現実(国際調査)


8.学習意欲減退・学力
の低下の現実(国内調査)


9.学力低下にどう対
応するか

10. 学習資本主義
社会をどう生きるか



1.業者テスト問題を契機としてはじまった


60・70年代を通じて、学校教育の状況は一般に次のように総括されている。
(1)知識の詰め込み教育
(2)加熱する受験競争
(3)学校への疎外感、校内暴力
(4)いそがしすぎる子どもたち

■教育改革と学習指導要領の改訂の流れ
<教育改革>
 1977〜78 授業時数削減に転じる
      「ゆとりの時間」導入(「ゆとり路線」始まる)
 1989 「生活科」新設
 1992 学校5日制月1回
 1993 文部省、中学校から業者テストの排除通知
 1995 学校5日制月2回
 1998〜99 学習内容の3割削減・「総合的な学習の時間」新設
 2002 現「学習指導要領」・完全学校5日制始まる
      遠山文科相、補習・宿題奨励の「学びのすすめ」
 2003 「発展的内容」教えてかまわないとする一部改正
 2004 中山文科相、私案で「全国学力テストを」
      国際学力調査の発表で文科省、学力低下認める
      中山文科相「土曜授業容認」発言
 2005 中山文科相、総合的学習見直しに言及
 2007 教育再生会議の提案=「ゆとり教育の見直し」
      全国学力調査始まる

新指導要領の告知1998年、小学校・中学校での実施2002年4月(平成14年)、高校では2003年4月より実施。
<学習指導要領の基本方針>
(1)「ゆとり教育」
(2)教科内容の削減 一律3割削減
(3)週休2日制の完全実施 授業時間数の減少
(4)「生きる力」をコンセプトにした総合的な学習の時間の導入
(5)観点別3段階評価と絶対評価5段階評定 「新学力観」

「ゆとり」教育の話しは、高度成長期の「詰め込み教育」批判として以前からあった考えだが、日教組が「学力テスト反対」と偏差値重視の弊害を指摘して「市販テストの不使用」を決定したのは、72、73年の大会であった。業者テストの偏差値で進路を輪切りにする、高校入試のあり方を改めよう、というのが趣旨だった。正論ではあっても世の中の現実の要望から乖離した議論だった。その後、偏差値による高校の序列化が進み、「中学浪人」を出すまいとすれば偏差値に頼らざるを得ないという現実に教師も親も押し流されてきたという現実もある。1992年、埼玉県から燃え上がった「偏差値による輪切り」指導が当時の文部省を動かし、「業者テスト」不採用が通知された。

強固な学歴社会。一方でその行き詰まりに直面して、臨教審や中教審は大胆な改革を提言し、文部省は上からの変化を推進しつつあった。小学生までが遊ぶひまもなく塾通いに追われる現実をがマスコミなどで喧伝され、「脱偏差値・個性重視」を目指すべきだとする報告書の基本方針を受け入れる世論が形成された。
だが、「ゆとり」・「週5日制」・「総合学習」・「観点別評価」、「新しい学力観」の学校教育のもとで、学力の危機と能力主義の社会を感じ取った人は、いちはやく学校教育の限界を見切り、子供を塾に通わせた。「ゆとり」と「新学力」により、塾通いの現実は解消されるどころがいっそう強い要望となって現れているというのが現実だった。中学校から業者テストを追放し、学校でゆとり教育を実践しても、今度は塾や予備校が学校に代わってテストをし、偏差値を算出する。そうしなければ客観的な学力評価は得られないし、教師は進路指導に困るし、親は不安になるからだ。「受験競争」と「塾通い」を追放し、「新しい学力観」のもと「ゆとり教育」を実施したが、結果的には、学力低下や学習意欲減退をまねいて塾通いをいっそう過熱させ、私学志向にも拍車をかける結果となった。
公立高校の入試に推薦を導入し教育内容を多様化して魅力を出そうとしても、親と生徒の気持ちは、厳しい学習指導やしつけ教育、大学受験に的を絞った私立高校に傾いていく。公立高校も保護者の欲求を無視することはできず、学力向上の重点校・全国学力調査・学校選択制・中高一貫教育・コース制・総合学科などの多様化の試行する。
「業者テスト排除、脱偏差値」を迫る以上、これらの課題も克服していかねばならなかったはずだが、現実をみない理念先行の「ゆとり教育」となってしまった。

西欧諸国に追い付け追い越せと、手早く知識や技術を注入する学校という仕掛けのもとで教育は画一的な効率主義に陥っていた面もある。しかし大方の教育現場では、知識や理解だけでは足りず、関心・意欲を持たせる工夫をし、思考力や判断力、問題解決力、コミュニケーション力など新しい学力=観点的学力の側面が実践されていた。過度な受験教育や詰め込みがあったのかどうかは別にしても、近代日本の伝統的な教育のありかたが、ひとつの転換期を迎えていることは誰もが実感してはいた。

1984〜1987年の臨時教育審議会。レーガンやサッチャー流の新自由主義思想からスタートした新自由主義教育改革といわれ、産業競争力再建のための能力主義教育(学力向上・規律回復)をねらいとするはずだった。だが、情報社会・消費社会の深化とセットになった目的喪失的総バラ色的教育、「ゆとり教育」「個性重視」となってしまった。
「生きる力」、「新しい学力観」、個性を尊重し自主性を育てたいというのが審議会の趣旨。「自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、問題を解決する能力」を育て、「学力の評価は単なる知識の量の多少ではなく「生きる力」を身につけているかどうかによってとらえる」とする。個性化や多様化。「させられる学習」から「自ら求めて学ぶ」楽しさに気づいていく教育。このような「生きる力」的学力の理念については、誰もが否定はできない。その施行には実効性に疑問があっても、ある種の期待感があったのも事実。
だが、このような「生きる力」的議論は美しいが、抽象的にすぎて実感にとぼしく現実の国民的欲求から離れ、その具体的な教育方法や手段となると困難が多い。

「言うや良し、されど実行は難し」、広がる学力格差・学力低下という現実に社会は厳しく反応した。「豊かな社会」と裏腹に荒れる学校、いじめ、不登校と自分を満たされない子供らの悲鳴は高まるばかり。いじめ・不登校・自殺・学習時間の減少・学習意欲の低下という現実の中から「学習からの逃走」といわれる現実も指摘されている。大人の「格差社会」がそのまま子供たちにももたらされているようだ。

苅谷剛彦氏によれば、問題は受験勉強の過熱や子供たちが忙しいからではない、むしろ学習時間の減少が問題なのだという。学習離れ・学習意欲の減退、忍耐や持続からの逃走。指導内容の定着がおろそかになっている。そして学力格差の拡大・親の収入や文化度による階層差が子供の教育に影をおとしている。


2.学校・教育の病理的な現象

学級崩壊・いじめ・校内暴力・学習意欲の減衰・授業ボイコット・子供の自殺や殺人。
勉強離れ−学校での勉強に価値を見出せなくなり、ほどほどの努力しかしない。
努力や忍耐が価値からはずされ、そこそこの学力と生活で満足してしまう個性や自己満足、子供の自主性と主体性を尊重して、勉強からの逃走も個性となってしまう現実。
抑圧する学校・教師たち、受験の圧力からの解放というわかりやすいストーリーから、いっきに子供の主体性と個性の尊重への転換。 生活意識調査はプライバシー問題などにより学習意識調査に置き換わってしまう現実。
教師による指導から支援へという、一見子供の学習意識を尊重したような甘い言葉。
拍車がかかる塾・私学志向。
携帯電話・インターネットの怒涛の普及、学習意欲の問題、「学びからの逃走」という現実も。
そして「豊かな社会」の中の賃金格差と階層化社会の進行。階層社会は子供たちの学力の形成にも学力格差をもたらす。
「しっかり食事をとり、たっぷり睡眠し、基本的な勉強をしっかりとする」という基本的な生活や学習習慣の徹底がここへきて叫ばれているのだが。

<社会的な原因>
(1)少子化で入試が緩和され、受験圧力が弱くなったために学習意欲が減退。
(2)詰め込み教育や過度の受験競争がストレスを増大させ、意欲を減退させた。
(3)学歴信仰が崩れ、勉強してよい大学に入っても、社会的な成功に結びつくものではないという無力感。
(4)社会的な豊かさや環境・価値観の変化のため、子どもがこつこつ勉強したり努力することに価値をおかなくなった。
(5)享楽的な娯楽が増え、忍耐や持続が伴う学校の学習活動に興味を示さなくなった夜更かし・ゲーム・マンガ。生活習慣のみだれ。
(6)社会的な教育力の減衰
親が子に対して、学習することの大切さを言わなくなった。親の教育や学校に対する要望の多様化。社会の階層化の進展。
(7)人間関係の希薄化による対人関係能力の弱さ。

<教え方の問題>
(1)ゆとり教育の教育改革路線により、教科が軽視され、内容や授業時間が減った。
(2)「指導より支援」、体験活動中心、興味関心重視という風潮が強くなり、知識をしっかりと教えることが教え込みや注入だとして批判されるようになった。
(3)先生が宿題を出さなくなった。家庭学習のスキルや習慣が付きにくくなった。基礎・基本的な知識・技能・理解の定着がしにくくなった。
(4)学校の内外で安易な指導方法や教材が広まったため(?)、生徒の学習方法が質的に変化し、学習スキルが身に付かなくなった。
(6)教師の教育力の低下
学習することの意義をしっかり教えることができない教師が増えた。子供の自主性や個性の尊重が、積み重ねの努力や忍耐を避けて安易な自己満足や自己肯定の風潮を生み出している。

<教育にかかわる制度の問題>
(1)受験科目を減らすことで、受験に関係ない科目を勉強しなくなった。
(2)私立校が受験で優位にたち、経済的な上位階層に受験競争が限定される傾向がでてきている。家庭の教育力の格差。
(3)塾に行く子と行かない子の格差。親の収入や学歴、文化度による学習環境の格差。

それらをどう乗り越えるか。多少前後するが、これを解決するのが文部科学省の教育改革、生きる力・ゆとり教育・個性化教育・多様化ということになるのだが。

一方、「新しい学力」にも、能力差や格差が発生することは予定されていなければならない。学習すべき項目を減らして、全員が100点をとれるよう指導しているのだから格差はないなどというのは甘すぎて問題にならない。
「自ら考える力」「生きる力」「問題解決的能力」「問題発見能力」「考える力」「表現・技能」「創造力」「判断力」にも当然、能力差・学力差が生じてくる。むしろ知識・理解中心の時代よりいっそう顕在化してくるといったほうがよい。「一人一人のよさ」や「自ら考え、自ら学ぶ」・知識獲得の個別性という「個別性」の論理を強調することで、現実の学力評価の客観性や価値の序列性が棚上げにされる。そのなかで勉強する強者と勉強しない弱者の格差や社会階層間の格差の問題がいっそう顕在化してくる。

「新しい学力」は、エリート的な能力、エリート対象の教育目標か。それを大衆的な規模で、学習指導要領という法的拘束力を持った制度を通じて全国一斉一律に始めた、日本的な平等主義か?だが、現実には個性尊重の名のもとで、教育の階層化が進むことになる。その結果は、社会の不平等と格差化の拡大再生産をもたらすことになるのでは。画一化を嫌い、個性化を進めることは、どの集団の子供たちにも、同じ結果をもたらすわけではない。平等を犠牲にするほどの覚悟がいるのでは。(苅谷剛彦氏)

「教育内容の3割削減」・「完全週休2日と総合的な学習の時間による2割削減」、これでは全体としての「ゆとり」は1割にしかならない。そもそも「ゆとり教育」はなかったのではないか。いやそもそも「詰め込み教育」さへなかったのではないか?「ゆとり教育」のためではなく、「ゆとりが実現されなかった」ことによる学力低下では? 「ゆとり教育」実現の失敗、「詰め込み教育」是正の失敗。これをどのような方向で乗り越えようとするのか。勉強時間の減少という単純な指標からでも見えてくる。

「詰め込み教育批判」から「Child Sentered Approch」(自発的な学びのサポート)へ。だがこの考え方は、「子供たちが学びたくないといっているのだから、無理に教える必要はない」という意見に流される危険性がある。「自ら学ぶ意欲」の理念だけでは、十分な学習意欲を持つにいたっていない子供たちの、当然の学力低下を生じさせてしまう。「知識偏重・暗記中心」から「興味関心・思考力・判断力重視」への単純な移行は、欧米・北米で失敗している事例だという。子供中心主義的な教育論が実際に施行されたときの限界や失敗事例がたくさんあるのに、なぜ無反省にそれを繰り返そうとするのか。このことを十分に踏まえて対策を考えるべきだろう。

「知識を教える」ことは悪か。
日本社会の曲がり角は、教育の場だけではない。産業社会から知識社会への転換期にあって、日本のように「ゆとり教育」や教育内容のレベルダウンに取り組んでいる国はない。「子供中心」の教育は1980年代のアメリカの試みで大失敗している。習熟度別・能力別指導も1970年代が各国で試みられたが、欧米の先進国ではもはや採用されていない。
多様な能力や関心をもつ子供たちが相互の違いを通して学びあう「協同学習」の実現が、世界の教育改革の趨勢となっているのだが。
いずれにしても、基礎・基本の確実な定着からしか、「生きる力」も「確実な学力」もみえてこない。「ゆとり教育」は魅力的だがその幻想にとらわれていたのでは、改革の方向は見えてこない。


3.だか、学力低下という現実

●「学力低下論」
(和田秀樹氏)
受験勉強は子供を救う! 受験勉強の肯定的価値。受験という価値観の崩壊に歯止めが必要。「知識軽視」はマスコミ・教育関係者が拍車をかけている。
子供に明確な目標を。
内発的動機付けは現実的でない。
よい点をとって誉められる。高い学歴を求める−外発的動機が学習動機として強い。
受験競争の緩和が学習意欲を低下させ、学力を低下させている。
昔のように、受験勉強をさせろ。教科学習を削ってまで目標・方法の不明瞭な総合学習を課すべきではない。

(苅谷剛彦氏)
学習時間の減少。階層間で2極分化の傾向。
地域格差・階層的文化格差・家庭格差・親の学歴格差・収入格差などが背景としてある。
実際には2山化と全体的な学習時間の低下、 教育の不平等拡大のおそれがある。
生徒の自主性にまかせると、できる子とできない子の格差をいっそう広げることになる。勉強する子としない子、その格差は必然になってしまう。上位の社会階層の子供は塾や私学で意欲や学力を維持でき、下位の社会階層の子供はますます勉強しなくなり、学習意欲も低くなる。
知識軽視の風潮、それが全体的な知的レベルの低下をもたらしている。
教育の場における競争の否定、競争原理の否定、受験競争の緩和−学習しない子供。
新指導要領が一度実施されると、後戻りは容易ではない。学力低下に歯止めがかからなくなる。国力の低下、技術立国がなりたたない、国際競争力がなくなる。
だが、個人の自己実現という観点でも考える必要がある。
子ども一人一人の興味や関心を大切にし、もっている能力を引き出していくのが教育で、それは教師の仕事。安易に、子供の意欲や主体性や個性に委ねるべきものではない。

教育観のずれ。
だが、学力が低下すると民主的な社会を維持できなくなる。民主社会に参加し維持していくのに必要な知識をもち、意見を主張し、情報を整理して判断する能力が必要。
東大で「鎌倉時代の始まりと終わりの年代がいえない」学生が1/3いる。知育重視と批判される。だが、思考力や応用力、時間軸に日本史・世界史の主な出来事をおく基礎知識がないと、蒙古襲来の意味、日本社会にもたらしたもの、思考力もありえない。
「関心・意欲・態度」があって、そこから「思考・判断」が生まれ、「表現・技能」ができ、「知識・理解」として定着するという説明だが、実際的には「知識・理解」がもとになって「思考・判断」が可能になる。初等教育では「関心・意欲・態度」を目指すのではなく、まず基礎・基本の「知識・理解」のしっかりとした定着を一義とすべきではないか。「関心・意欲・態度」は、子供たちの教育目標ではなく、教師側で留意すべき方法や手法・技術なのではないか。


4.「学力低下はない」という立場

国際学力比較調査から、アメリカの1930年代の総合学習を含む進歩的なカリキュラムが効果的であったといわれる。だが保守派の攻撃で、後の教育改革に十分に生かされなかった。
伝統的な教育の中では、系統主義的な考え方に基づいて、カリキュラムは統制され、受験競争に拍車をかけ、詰め込み的な教育になった。<文部科学省の立場>

知識・理解を中心とした旧学力は落ちたかもしれない、思考・判断・表現・関心・意欲などの新学力が落ちていなければ、それでよいではないか。これからは旧学力より新学力の方が大切なのだから。落ちたのは旧学力で、新学力は大丈夫なはず。(?)
知識・理解で問われる学力は落ち、思考・判断・表現・関心・意欲などの新学力が落ちているとなると、「学力低下はない」という論理は基本的になりたたない。

「学習指導要領は最低基準」といっているのだが、ご都合な言い方では。教科書検定では指導要領を最低基準としては扱っていない。3割削減の厳守?「学習指導要領は最低基準」は事実的に「義務教育の複線化」になってる。
能力主義と競争主義を徹底する市場原理主義の教育政策と教育の機会均等を擁護する平等主義の教育政策の対立か。文部科学省は、新自由主義・市場原理主義を批判する立場をいちおうはとっているようなのだが。

受験競争の過熱、偏差値で輪切りにしていく進路指導への批判。
旧学力による輪切り?はいけないが、新学力や能力による輪切りは仕方がないのか。?公立の学校は新学力を教えるので、進学指導や受験勉強をしたければ、塾へ行きなさいということでよいのか。

3割り削減の教科・授業で、全員が100点をとれるようにする。(できる子はどうするのか。100点とれない子はどうなるのか。)
生徒の個人差、学力差の実態を低く見積もりすぎている。
「ゆとり」はこころのゆとりが大切なのであり、勉強にはきちんと取り組み、確かな基礎学力を身につけ、同時にスポーツ、文化活動、ボランティア活動などさまざまな体験を通じて、心豊かに成長していくのではないか。

といいつつも、学力向上フロンティア 2001年夏。これは、文科省が「ゆとり教育」路線から学力重視に方針変更した第一歩だったのか。「ゆとり教育」路線の補完か。
スーパーサイエンスハイスクール・スーパーインクリッシュランゲージハイスクールなどの試み。
「学びのすすめ」 2002年
(1)きめ細かな指導で、基礎・基本や自ら学び考える力を身に付ける
(2)発展的な学習で、1人1人の個性に応じて子供の力をより伸ばす
(3)学ぶことの楽しさを体験させ、学習意欲を高める
(4)学びの機会を充実し、学ぶ習慣を身に付けさせる
(5)確かな学力の向上のための特色ある学校づくりを推進する。
・柔軟な時間割の編成
・少人数授業や習熟度別授業など個に応じた指導の導入
・小学校での教科担任制
・発展的な学習の工夫
・社会人の活用
・補充的な学習
・主体的な学習の支援
・始業前に朝の授業の時間を設ける
・宿題によって家庭学習の充実をはかる
「学習支援サービス」であること


5.第3の立場 

(佐藤学氏・市川伸一氏らの立場)
学習離れの現状の認識:「学びからの逃走」
教科嫌いの増加・学校外学習時間の減少・読書冊数の減少、学びに熱心な3割りと学びから逃走する7割り。新しい学力観のもとでの知識軽視があるのではないか。
総合的学習の推進・地域との連携の評価。反復・習熟させる教育・受験プレッシャーの復活には反対する。
伝統的な系統学習では、基礎からの積み上げていくカリキュラム型学習が中心。(外発的動機付けが必要)しかし、学習には、自分の目的とする活動があって、それを実現するために基礎に降りていくという方向のもの。(総合的な学習)
この2つは相補的なものと考えるべきだろう。
「ゆとりのなかで学ぶ」とは「せかせかと知識を詰め込む教育」に対して「じっくり取り組む学習」を促すこと。つまり、問題解決的学習・体験的な学習・学習事項どうしの関連づけ・学び方の習得、を重視する。

だが、次のような学習指導の実態がある。
知識をあたえるのではなく考えさせる、教えるのではなく支援すること、意欲をそがないように発言で否定的なことを言わない。単元の導入時にほとんど知識も与えないまま考えさせたり討論させている、子どもたちの問題意識も考えるための材料も希薄で、しかも最終的に収束しないまま終わる。子どもが明らかに誤った考えを発表してもそれを正すことをしない、多くの子どもは学校で何を学んだのかもよくわからないまま時間がだらだら過ぎていってしまう、新しいことがわかったという喜びもなければ、得た知識を使って発展的な活動にいたるということもない。
こうして充実感のない授業は、詰め込み教育の対極にあるゆるみ授業となる。こんな授業は教育といえるのか。

知識の有用性が感じられる、リアリティのある学習環境が必要。自分の目的とする活動があって、それを実現するためにこそ基礎的な知識が必要。総合的な学習を積極的に評価する、という立場。

基礎的な知識・技能の上に創造的な行為や発想がある。
基礎の先にある新しいものを作り出すことを奨励する教育を。
「新学力」か「旧学力」かではなく、旧学力の落ちている子をどうするかが問題。
新しい学力観のもと新学力に振りすぎていないか。そして現在は、旧学力も新学力も落ちてきているのではないか。


6.「学力」とは何か

旧学力と新学力、そして関心意欲態度を中心とした「生きる力」的学力。この「3つの学力」が別々にあるように見える。だが、それらは別のものではなく実は学力の実態的な構造なのではないか。
(1)ペーパーテストで測定しやすい知識・理解・技能・表現。眼に見える学力、旧学力という表現もある。学力の基礎・基本とも言われる。
(2)ペーパーテストで測定しにくい思考力・文章読解力・論述力・批判的思考・問題追究力・表現力。「見えにくい学力」・新しい学力という表現もある。
(3)学ぶ力としての学力(広義の学力)
自発的な学習意欲・知的好奇心。学習を遂行するための計画・方法・集中・持続の力。教えあい・話し合いしながら学んでいくコミュニケーション力、学力と学習活動を支える力にはさまざまなものがある。生活習慣や学習習慣も広い意味の学力に含めることもできる。

この3つの学力は、相互に排他的なものではない。構造をもった一体としてみるべきものだろう。だが、学力は人間にそなわるべきものであれば、静的な構造であるわけはない。動的なラセン的円環として形成されるべきものとみるべきだろう。

「見えにくい学力」
思考力・文章読解力・論述力・批判的思考・
課題解決的能力
「見やすい学力」
教科的な基礎・基本的学力
知識・理解・技能・表現
「生きる力」=広い学力(学力をささえるもの)
学習意欲・知的好奇心・コミュニケーション・持続力・集中力・生活習慣・学習習慣など

学力低下という時の「学力」は多くの場合、教科的・基礎的な学力を指すことが多い。「見えにくい学力」や「生きる力」は、過去にこの学力を測った調査がないため低下したのか横ばいなのかもわからない。ただ、「見やすい学力」が低下しているのに「見えにくい学力」が上昇するということはありえない。
だが、 国際数学・理科教育動向調査2003年調査で、テレビを見る時間が世界一長く、算数・数学はきらいで勉強意欲も世界最低レベルなのに、算数・数学の基礎的な学力や「数学的リテラシー」では世界トップレベルということもある。
勉強は将来何の役に立つかもわからず、勉強そのものがきらいで勉強意欲もないが、テストだけは高得点をとる、という実態をどう理解すればよいのだろうか。親の子に対する学力観にゆがみがあるせいなのか、学校教育のありかたに問題があるのか、教師の指導や努力によりかろうじて「学力崩壊」を食い止めているともいえるが、その教師は学校なのか塾や予備校なのか。しかし、近年の学力低下は教師の指導力不足や学校教育の施策だけの問題ではないだろう。学校や教育の病理は、社会の病理ともいうべきで、社会全体が抱えている問題と考えなければ有効な解決策は出てこない。
新・旧といわず学力を全体的なもの・総体的なものと考えるならば、「見やすい学力」のみを突出させた「学力」は偏った学力といわざるをえない。
「学力」とは何か、何のための学力なのか。学校教育的・教科的学力とは別に、もっと本質的な学力ないし能力が問われているように思う。
近年、PISA的学力が注目されている。世界標準的な「学力」の意味合いがあるからだろう。高度情報社会といわれる社会の構造的な変化に対応していける能力や、政治制度、人種や民族を越えて理解し合える能力や、グローバル化する経済社会にうまく対応していけるような能力、民主社会の一員として社会に参画し、維持発展させていく能力、また、環境や自然に対する正常な態度や健康や安全への配慮、それは日本の国家的な人材育成の要請でもあれば、市民社会の要請でもある。


7.学習意欲減退・学力の低下の現実(国際調査)

最新の2つの国際的な学力調査結果がある。この結果だけでは、日本の子供たちの学力がどうだったのかはわからない。TIMSSの質問紙の結果には、日本の子供たちの学習・意欲・生活の実態が反映されている。

「国際教育到達度評価学会」(略称:IEA)による 2003年(平成15年)国際数学・理科教育調査(TIMSS)の結果は次のとおりだった。(文科省・生涯学習政策局政策課)

学力調査の結果

@中学校2年生の数学の平均得点 5位(1999年 5位)
シンガポール,韓国,香港,台湾,日本の順で,日本は第5位。
ロシア,アメリカ,イタリアは国際平均値より高い程度。

A小学校4年生の算数問題の平均得点
シンガポール,香港,日本の順で,日本は第3位。

B中学校2年生の理科問題の得点
シンガポール,台湾,韓国,香港,エストニア,日本,ハンガリーの順で,日本は第6位となっている。ちなみに,アメリカ,ロシア,イタリアは国際平均値より高い。

C小学校4年生の理科問題の得点
シンガポール,台湾,日本,香港,イギリスの順で,日本は第3位となっている。ちなみに,アメリカ,ロシア,イタリアは国際平均値より高い。

質問紙の結果 算数・数学

(1)宿題をする時間は,
日本は1時間であり46か国中最も少なく,国際平均値の1.7時間より0.7時間少ない。
 家の仕事(手伝い)をする時間は、日本は0.6時間であり、国際平均値の1.3時間より0.7時間少ない。

(2)テレビやビデオを見る時間
2.7時間と46か国中最も多く,国際平均値の1.9時間より0.8時間多い。

(3)「数学の勉強が楽しいか」勉学意欲
日本9%    国際平均29%
中学校2年生に数学の勉強が楽しいかを4つの選択肢で尋ねた設問について,「強くそう思う」,「そう思う」,「そう思わない」及び「まったくそう思わない」と答えた生徒の割合を表している。
 我が国は「強くそう思う」と答えた生徒の割合が9パーセントであり,国際平均値の29パーセントよりも20ポイント下回っており,オランダ,スロベニアに次いで低く,国際的に見て低いレベルにある。
小学校4年生
我が国は「強くそう思う」と答えた児童の割合が29パーセントであり,国際平均値の50パーセントよりも21ポイント下回っており,ベルギー(フラマン語圏)に次いで低く,国際的に見て低いレベルにある

(4)「希望の職種に就くために数学は必要か」
日本47%    国際平均73%
中学校2年生に希望の職業につくために数学で良い成績を取る必要があるかどうかを4つの選択肢で尋ねた設問の回答のうち,「強くそう思う」及び「そう思う」と答えた生徒の割合を合わせたものである。
 我が国は47パーセントで国際平均値の73パーセントよりも26ポイント下回っており,台湾の46パーセントに次いで低く,国際的に見て低いレベルにある。

(5)「数学の勉強への積極性」
日本17%    国際平均値の55%
中学校2年生に,表の下に示した7つの質問紙項目について尋ねた回答を合成して「数学の勉強への積極性」についての指標として表したものである。
 我が国は「数学の勉強への積極性」についての高いレベルの割合が17パーセントで国際平均値の55パーセントよりも38ポイント下回っており,オランダの16パーセントに次いで低く,国際的に見て下位にある。

(6)読書と学力
家庭の蔵書数と子どもの学力は高い相関がある。
「趣味としての読書はしない」と答えた割合は55%で先進国では日本がもっとも高い。

<質問紙の結果 理科>
( 1)「理科の勉強の楽しさ」
中学生 日本19%    国際平均値の44%
小学生 日本45%    国際平均値の55%
我が国は「強くそう思う」と答えた生徒の割合が19パーセントであり,国際平均値の44パーセントよりも25ポイント下回っており,韓国,台湾に次いで低く,国際的に見て低いレベルにある。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

「経済協力開発機構(OECD)の「生徒の学習到達度調査(PISA)」
Programme for International Student Assessmentの略称
2003年調査国際結果
参加国が共同して国際的に開発した15歳児を対象とする学習到達度問題を実施。
読解力、数学的リテラシー、科学的リテラシーを主要3分野として調査。
2003年調査では数学的リテラシーが中心分野。読解力、科学的リテラシーを含む主要3分野に加え、問題解決能力についても調査。

数学的リテラシー平均得点の国際比較
数学的リテラシー全体 6位
「量」領域      11位
「空間と形」領域   2位
「変化と関係」領域  7位
「不確実性」領域   9位

読解力、科学的リテラシー及び問題解決能力の平均得点の国際比較
読解力        14位
科学的リテラシー   2位
問題解決能力     4位

PISA2000年調査の国際結果
総合読解力      8位
数学的リテラシー   1位
科学的リテラシー   2位

 


8.学習意欲減退・学力の低下の現実(国内調査)

刈谷剛彦教授・志水宏吉教授のグループによる調査
岩波ブックレット「学力低下」の実態 2002年10月より

2001年11月 関西都市圏で実施
1989年 大阪大学の池田寛教授グループが実施した「学力・生活総合実態調査」をもとに比較調査を行った。
算数・数学と国語。学力テストの問題をほぼそのまま使い、過去の採点基準マニュアルに忠実にしたがって採点した。
小学校16校921人、中学校11校1281人の協力
基礎学力は低下しているのか。
       89年   01年   変化
小学校 国語 78.9   70.9   -8.0
小学校 算数 80.6   68.3   -12.3
中学校 国語 71.4   67.0   -4.4
中学校 数学 69.6   63.9   -5.7
子供たちの基礎学力はあきらかに低下している。

どの層の学力が落ちているのか。学力格差の拡大、「ふたコブ化」現象。
第一のピークが80点台にあり、それほど高い山ではないものの30点台に第二のヒークができている。
「子どもたちの学力が全般的に落ちている」というわけではなく、むしろ「できる子とできない子の格差が拡大して、ふたコブ化が進んでいる」。
その原因は、塾にいっている子といない子のちがいといえる。

調査では、89年の小学生の通塾率29.2%、中学生54.4%に対して、01年には小学生が29.4%、中学生が50.7%となっている。長引く経済不況のためか、通塾率は増えていない。
両者の学力の差は中学校数学で10ポイントを超える大幅なもの。
塾へ行く者と行かない者・いけない者との学力格差は拡大する傾向にある。特に中学校においてそれは顕著である。

10年間続いた学習指導要領のもとでの教育が、基礎的な学力の定着に十分ではなかったことを指摘したい。子どもの意欲や、興味・関心を大切にしようと、指導より「支援」を重視してきた「新しい学力観」のもとでの教育は、少なくとも今回の調査でみるかぎり、基礎学力の定着という面で問題がなかったとはいえない。

「自ら学び、自ら考える力」を育てるためにも、基本的な内容が教えられたがどうか、それを子どもたちがきちんど身につけているつけているかどうかに、公立学校はもっと責任を持つ必要がある。そのためには少人数学級の実現や教員の強化指導力の改善など、行政もそれをサポートする義務がある。

2002年4月に始まった今回の新指導要領のもとてせの教育においては、さらなる格差拡大が懸念される。教科を教える時間と内容を削減し、その分、子どもたちの自主性を尊重する「総合的な学習の時間」が導入された。理想どおりにことが運べは問題はないのだろうが、子どもの実態は厳しい現実を教育現場に突きつける。基本的な内容が十分身についていない子どもが増えている実態を踏まえると、子どもの主体性にまかせるばかりの教育は、発展的な内容を含む体験学習や調べ学習の場において、さらなる格差を拡大しかねないからである。特に、塾などに頼れない子どもにとっては、公立学校の責任は大きい。


9.学力低下にどう対応するか

(1)日本の大人の科学的な関心や知識が世界的にみて低いこと。先進国としての生涯学習社会が成熟していないこと。
子供の問題=大人の問題。家庭教育、基本的な生活習慣。
日本の親の学習や労働に対する意欲が決して高くないという現実。日本人は本当に勤勉なのか。

(2)「豊かな社会」で進行する格差社会。享楽的な娯楽や拝金的ビジネス。
ニートやフリーターでも生活できる経済環境。階層・格差社会といわれても、最低限の生活は保障されている「豊かな社会」。学ぶこと・働くことの意義を教えなくなった「主体性と個性尊重教育」。志のない売り上げ至上主義・拝金的なビジネスの蔓延。

(3)教科学習と活動的・体験的な学習の連携の不足。
何のための学習か。学習の成果の生活場面での役立ち感の希薄。教科学習と実際の生活や将来の職業との関連を実感できない。現実社会との体験的な学習の不足。学ぶことの意義と目的の希薄化。

(4)学校と地域社会との連携の不足。社会の教育力の低下。
身勝手な親の増加。相変わらず事なかれ的・保身的な学校。
学校の教育・指導の方針を地域社会に公開し、協力を得る努力が必要。

(5)自由主義的・市場原理主義的な社会風潮
「ゆとり教育」は図らずも、自由競争的な社会風潮に対応し、新たな学力エリート層を生み出すことになる。勉強するもしないも自由、勉強させる必要を感じるなら子供を塾に通わせ、学習指導をしっかりやってくれる私学に入れる。

<教育についての2つの立場と構成主義>
(1)大多数の人間は外発的な動機により動く。自立的に学習していく能力をあまり信頼しない。
学ぶべき知識の体系化、教師主導、管理強化的な対策。先生・校長の指導力の強化を。
「なぜ学ばなければならないのか。学ぶとの意義を教える必要がある。」
「希望」「将来の夢」「10年後の自分」「なりたい職業」「どんな生活をしたいか」

(2)児童中心主義。人間は内発的な動機をもった存在で、それらをうまく喚起できる環境を整えれば、生徒は自主性を発揮し、自律・自発的に学んでいく能力をそなえているものだ。学ぶ意欲は、生来のもの。「進歩的教育観」「環境を整えてやれば」が問題。

構成主義とは何か。(刈谷剛彦教授による)
学習や記憶というものを、学習者が、たんに知識や情報をインプットされ、脳の中に貯蔵されるという受動的なメカニズムとしてみるのではなく、学習者が主体的、積極的にかかわり、それまでの体験や既存の知識と関連づけながら、知識や情報を(再)構成していく過程として学習をとらえる論理。
記憶された情報はたんに受動的に貯蔵されるものではなく、学習者が積極的に構成するものだと見ることから、構成主義と呼ばれる。
これはアメリカの子供中心主義の教育の中でいわれた。ここから、学習者の主体性や積極性を価値づける見方が導き出される。子供中心主義の教育論が、構成主義を理論的支柱とするのも、体験主義・活動主義の学習観が学習者の主体性・積極性を基盤にした教育論だからである。
しかし、構成主義の理論を体験を重視する子供中心主義の教育とだけ結びつけることはできない。他のあらゆる学習に適応可能とみるべきだろう。

「ゆとり教育」は(2)の立場からの発想。主体性・個性尊重、指導から支援へ、「総合的な学習」など。だが、それがもたらしたものは、基礎学力の低下、学習意欲の低下、向上や努力や忍耐の価値の否定、指導を放棄した生徒中心主義、競争を排除した甘い評価、教育現場のまよい、塾・私学志向の現実。

教育格差の拡大。総合学習の準備に追われ、基礎基本がおろそかになる。
そのしわ寄せは、目が届かなくなる子供、手をかけないと出来ない子供ほど、その影響を受けやすい。成績の低い子供の学力がさらに低下する。
「学ぶ意欲」はどの子供にもある? それはあまりに楽観的な見方では。
家庭の文化的な環境の違い。塾に行けない家庭。学力格差はいっそう増長される。

基礎的な教科の知識を得ることは必要。そのきっかけとしての受験という一面がある。
受験勉強は教育をゆがめている面があることも事実だが、自己学習の1つの契機にすることも可能であり、受験勉強がプラスに転じたと感じている大学生や社会人がたくさんいるのも事実。根拠のない受験競争や詰め込み教育批判に、マスコミなどが引きづられ過ぎているのではないか。
競争的な評価を否定する意見が強いが、学習も仕事も適度な競争意識が必要。競争心や向上心は否定すべきものではない。

到達度評価は、学習目標に対する到達程度の評価だが、集団の中での位置や序列は扱わない。到達度がBやAと評価されても、それがどの程度の学力なのか実感がない。評価する側は到達度評価の教育評価としての妥当性をいうが、親や子供にはそれだけでは学力のレベルを実感できない。 到達度評価を5段階や10段階に細分化して学習目標を明確にしたり引き上げたりするか、C評価の子供に対する厳しい徹底した指導などがないと、到達度評価だけでは限界がある。相対評価と到達度評価の2つを同時に採用するというのも現実的な対応と思われる。一方は集団の中での位置関係であり、一方は学習目標への到達の程度を評価する。
到達度・絶対評価を、入試の内申点として使うことによる入試選抜の混乱も避けられる。

旧学力と新学力のあいだでの「学力の振り子論」がある。新学力に振りすぎたのだから、今度は旧学力に振って補正をしなければ。だが、これが進歩なのか。

刈谷剛彦教授は、「学校の教育効果は、階層のカベを突き破る潜在力を十分に持っている」として、「効果のある学校」を提唱する。
「効果のある学校」とは、生徒たちの家庭の文化的階層は中位にあるが、学力テストの結果が最上位レベルに位置している「成功例」の学校のこと。
(1)「学習意欲」や「自学自習」をキーワードとする指導が行われている。
(2)「個別指導・少人数学習・一斉指導」を柔軟に組み合わせた授業づくりが推進されている。
(3)子どもの集団づくりを大切にし、「わからない時はわからないと言える」学習環境をつくっている。
(4)家庭学習にも活用できる「習得学習ノート」をつくり、子どもたちが学習の見通しをもち、学習のふりかえりができるようにしている。
(5)「総合学習」等で、子どもたちが「進路」や「生き方」を考えることを重視し、学習に対する動機付けを促している。

また、志水宏吉教授は「学力を育てる」(岩波新書)の中で、日本版「効果のある学校」 -しんどい子に学力をつける7つの法則-として、次の7項目をあげている。
@子どもを荒れさせない
A子どもをエンパワーする集団づくり
Bチーム力を大切にする学校運営
C実践志向の積極的な学校文化
D地域と連携する学校づくり
E基礎学力定着のためのシステム
Fリーダーとリーダーシップの存在



10.「学習資本主義社会」をどう生きるか

問題の原因がかならずしも教育の側にないのに、いくら教育制度の改革といっても、問題は解決されない。大上段な言い方をすれば、後期産業社会から情報社会への移り変わりの中で、社会が教育に期待するものも変わってきている。
子供に学習意欲がない。いじめ、不登校、モラルの低下、家庭環境の問題。社会の抱える病理。教育の神聖視は問題外にしても、今の教育状況を市場原理に教育をゆだねれば、教育は改善されるのか。市場がもとめるもののみを教育サービスというかたちで提供すればよいのか。情報化社会は、日々進歩し続ける知識と技術の学習社会でもある。ものづくり以上に、情報が価値を持ってきている社会であり、グローバル化する経済社会の中で活動できる能力がとわれている。学習者に求められる学習能力のハードルはますます高くなってきている。

「学習資本主義社会」(刈谷剛彦教授)
過去に習得した知識や技能よりも、学習能力が人的資本形成の中核となる。
それは学習能力が「資本」となる社会であり、「自ら学ぶ力」=「学習資本」を個人が自分の判断でいかに身につけるかが、社会のあり方や人間形成に、広く深く関わるようになる社会。
学習能力=自己反省能力。自分の学習を振り返るとともに、新しい学習の機会を捉え、有効な学習を積み上げていくことが「利口な」学習者に求められ、そうやって「上手に楽しく」学び続けることで、学習の成果と学習能力を高めていく。それが知識社会を生き抜く上での自分の価値を高めるための元手となる。
自らの人的資本を、自らの責任において、自己増殖させること。

「ゆとり教育」の失敗 原因と対策。
「自ら学び考える」教育が大切。「総合的な学習」により「生きる力」を養う。だがそれをいかに実現するのか、どのような条件整備が必要か、そのため人的・物的・財政的な教育環境の整備をどうおこなうのか。
小学校での英語教育、基礎学力に発展学習、こころの教育、規範意識や情操。
学校の身の丈を知ろうとせずに、要求のリストだけが増えていく。これらの点について具体策が何もないうちに理念先行型教育改革がスタートした。それが「ゆとり教育」の失敗である。

より高度な教育を求めるのであれば、実行するための高い資源と能力をもった教員が必要である。新しい能力の育成を目指すなら、現場教員の能力を高める研修プログラムも必要になる、授業開発のための充分な時間的余裕、それを指導する専門家といったリソースが必要である。教員の多忙化、性急な改革への現場の不満。ゆとりなのか学力向上なのか、揺れ動く教育方針。

以上