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佐藤義清(後の西行)の出家 |
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晩年の西行は、好々爺といった感じで、すがる娘を蹴落とすようなイメージはないが、これの西行のイメージにもっともぴったりくるように思う。 |
1. 芭蕉の師 西行 芭蕉は、日本橋での町名主補佐の「書き役」という仕事の他、多くの弟子に囲まれた俳諧の宗匠として、それなりに恵まれた生活をしていたようだ。その生活をうち捨てて隅田川向こうの深川村に転居してしまう。深川転居の原因は不明である。だが、深川隠棲と言われる厳しい生活と孤独な俳諧創作の中から、俳聖芭蕉が生まれることになる。 佐藤義清(のりきよ 出家後の西行のこと)の出家が気になってしかたがない。義清はなぜ出家したのだろうか。何が出家をという選択を強いたのか、出家にともなう人生をどのように引き受け、別の生き方をどう切り開いていったのか、そういう生き方の現実はどうだったのか。そもそも西行とは何者なのか、出家とは何なのか。 |
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2. 義清23歳の出家 平安時代末期、23歳の義清が出家した。 義清は18歳の時、私財寄付の成功(じょうごう)により兵衛尉(ひょうえのじょう)となる。 世にあらじと思ひ立ちける頃、東山にて、人々、寄霞述懐といふことを詠める
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3. 出家の動機 「そもそも西行は、もと兵衛尉(ひょうえのじょう)義清也。重代の勇士たるを以て、法皇に仕ふ。俗時より心を仏道に入る。家富み、年若く、心に愁無きに、遂に以て遁世す。人これを嘆美する也」
(藤原頼長の日記『台記』) とある。同時代の日記であるため、ほとんど唯一の確からしい記録といわれている。 動機としては、日記や後世の物語に記されていることから、@親友の突然死やA高貴な女性との失恋があげられているが、他に、B無常観や仏教への帰依や、C摂関家の争い皇位継承をめぐる政争への失望から、などがある。
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| 4. 急死した友人から人生の無常を悟って
「西行物語」「西行一生涯草紙」「西行物語絵詞」「西行上人発心記」などの説。 友人の死はありそうなことだが、出家の動機というにはどうでもよいことのように思われる。合戦での殺生、主家の死、肉親の死。すべての武士に日常的に訪れること。とりわけの友人の急死が出家の直接の原因になったとは考えにくい。
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西行は本当に、この高貴な女性に恋をしたのだろうか。高貴の人が「阿漕の浦です」などと、えげつなくて面白くてことを言うものだろうか。 |
5. さる高貴な女性との失恋
「源平盛衰記」「お加草子」「そしり草」「扶桑故事要略」がこの説。「源平盛衰記」では次のようなことをいっている。 「お加草子」ではもっとまことしやかな虚構になっている。 西行が接し得た高貴の女性は、鳥羽院中宮の待賢門院璋子ということなるが、璋子は西行の17歳年上である。絶無ではないにしてもあまり現実的ではないような気もする。西行独りよがりのプラトニックなものであったかも知れないが、当時の本当のところはよくわからない。ただ、西行の歌は、近い事実があったことをうかがわせる。 葉隠れに 散りとどまれる 花のみぞ しのびし人に 逢ふ心ちする (599)
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| 6. 仏に救済を求める心の強まり
浄土思想・西方浄土、浄土といえば一般に阿弥陀仏の「西方極楽浄土」をさす。 身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ (「詞花和歌集」巻第十 雑下 読人不知として) |
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7. 皇位継承をめぐる争いと摂関家の政争への失望 現代からみると、摂関政治や院政などは、ほとんど私利私欲のでたらめな政治制度である。歴史時代の出来事を色眼鏡をかけて価値判断することは間違いだが、さすがの西行にも当時の院政や貴族たちの政治や生態には嫌気をさしたのではないか。
1139年、保延五年、藤原得子(美福門院得子)が鳥羽上皇の皇子体仁(後の近衛天皇)を生み、鳥羽上皇は体仁を次期天皇として立太子させる。このことは待賢門院璋子の皇子雅仁(後の後白河天皇)の存在を無視することを意味した。ここで崇徳天皇・中宮待賢門院璋子と、鳥羽上皇・美福門院得子との決裂が決定的なものになり、将来起こり得る武力対立を予感させるものになった。 鳥羽上皇の側にも言い分があった。彼は父祖にあたる白河上皇の養女で寵愛を受けていた璋子を中宮としているが、中宮璋子が生んだ子顕仁(後の崇徳天皇)が白河上皇の子であることは、公然の秘密となっていた。鳥羽上皇にしてみれば、この怨恨をはらす機会だったことになる。鳥羽上皇は、2つ年上で美しい待賢門院璋子を中宮として敬いながらも、白河院と璋子そして顕仁に対して決して心穏やかでは居られなかったはずである。 一方、平清盛のような新しい形の武士団の出現も西行の心を揺さぶっていただろう。 西行は出家してみてはじめて、権力に渦巻く陰謀、権力への執念、富や地位や女性への飽くなき欲望、そういったものがいっそう見え過ぎるほど見えてしまった。西行は、基本的には非政治的人間に分類されると思うが、彼は騒乱の一方に肩入れしたくなるような思いで、都を離れ得なかったのではないか。
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8.だから出家の動機は 小林秀雄も吉本隆明も、「高貴な人との失恋説」は一笑に付している。だが、出家前の佐藤義清の歌には失恋説を否定するには余りある失恋歌が多いように思う。まあ、事実は分からないのだから、彼の歌から推測してどんな説でも成り立つのだろうが、失恋説は、大きくは「人生無常説」「仏に救済を求める説」に含めてもよいのだろう。 窪田章一郎著『西行の研究』によると、出家の根本にあったものは、「よりよき生き方をしたいという人間の純粋な希望、要求であり、出家という行為は自身を自由にし、束縛から離つことであり、自己を遂げ、自己を解放することに価値ある生き方を求めることである。そこには政治的な絆や恋愛の苦しみから自己を救うという消極的な自己救済と、作歌と修業という積極的な自己救済」である、としている。 先んじて西行を「自意識」の人ととらえた小林秀雄や窪田章一郎。これらの説のように、現在の大勢は、西行の出家は外的な要因に動かされたことがあっても、根本的には「より新しい自分を発見し、より自己を高める」という思いがあったからだとという。 受け入れるしか仕方のない宿命のような情況が、西行にはあった。鳥羽院の北面の武人として、紀伊国田仲庄の領主一族の荘園運営者として、妻や子の家族と家を守るという生き方があったはず。だが、西行はそれらをかなぐり捨てて出家という道を選んだ。「よりよい生き方」をしたい、「価値ある生き方」をしたい、「世俗に対する嘲笑と内に湧き上がる希望」に生きたい。だが、そういう生き方としての出家は、どうもしっくりしない。西行自身はそんな風には意識していなかったのではないか。現状に対する否定、それに関わる自己の否定という生き方でもよいのかもしれないが、それだけでは刹那的過ぎてやっていけない。出家後の西行という生き方の目指すもの、価値とするもの、希望とするものが見えてこない。西行出家の動機は「無動機の出家」、とりあえず、そういう風に考えておくことにする。
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9.「出家」とは何か 吉本隆明は、かなり執拗に「手ずからもとどりを切る(ちょんまげを切る)」「出家」について追及している。(「西行」の「僧形論」) 以下、勝手に要約してみる。 「撰集抄」(西行が撰者だと信じられていたが)の記載によれは、かれらは、頭や顔から手足まで泥をかぶったようで、見苦しい様子をしていて、形のととのった衣なども着ず、むしろ菰などをひっかけたような風体をしていた。そして食物は、魚や鳥などの生臭物をもさけることはしなかった。だが、たぶん、念々が臨終だとする往生死の、実践的衝迫力を保持していたのは、かれらだけだった。 他人からみて思い当たるような変事がなかったとすれば、動機は内面に秘されていた考えるしかない。現在だってそういうことはあり得る。現実が苦しかったといっても、家が苦しかったといっても、勤めが苦しかったといっても、それが他人からはわけがわからないように見えても、内面で耐えていた堰が、ふとしたきっかけで切れれば、青年は蒸発する。そういう人物は、平安末期の当時でも珍しくはなかっただろう。 西行は、「身辺の動機なしにも、時代思想に敏感で、すべてに多感でありさえすれば、十分に出家遁世に踏み切る根拠を持っていた。出家は、いわば平安末から鎌倉期にかけての前衛的な思想であり、僧形はある意味で前衛的でもあった。西行の出家は、時代思想に埋没させてもよいように思われる」と吉本はいう。
夜もすがら 月こそ袖に やどりけれ 昔の秋を 思ひ出づれば(351) |
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| 以上 | |||
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