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西行 小夜の中山と奥州の旅 |
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![]() 小夜(佐夜)の中山は、日坂と菊川を結ぶ峠道で、箱根・鈴鹿とともにその険しさで東海道の三大難所といわれていた。現在は牧之原台地の一角にあり一面の茶畑となっているが、平安末期はどうだったのだろうか。 |
命なりけり小夜の中山 [地図] 1143年、西行26歳、最初の奥州の旅に出る。23歳で出家し、3年が過ぎていた。西行はなぜ奥州の旅に出たのだろうか、その理由ははっきりしない。 |
![]() 掛川市小夜鹿字小夜鹿、小夜の中山峠の道路沿いにある小さな公園。その入り口に写真のような西行の「としたけて・・・」の句碑がある。 |
小夜の中山の峠道沿いですぐに眼につく「西行歌碑」。向こうの家は「子育て飴」という水飴を売っている扇屋。江戸時代には峠のあっちこっちにこのような茶店があったという。 この茶店の正面に「西行歌碑」があり、「小夜の中山公園」へと続いている。 東海道が開かれるのは鎌倉幕府が鎌倉に開かれてからで、その前までは鈴鹿峠より東はほとんど未開の地だったようだ。西行が東国に下ったときには東海道は、かなり心細い道中であったことが予想される。
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![]() 字が大きく読みやすい歌碑。達筆で何と書いてあるかわからない碑が多い中で、とても好ましい。 |
西行は、小夜の中山で次のような有名な歌を残している。 あづまのかたへ相識りたる人のもとへまかりけるに、小夜の中山見しことの昔になりたるける思ひ出でられて この2つの歌はとも西行きっての秀歌といえるだろう。「年たけて」はいかにも69歳の西行だが、「行方も知らぬ わが思ひ」は、出家時23歳の西行の歌だといってもおかしくないほど、青年のようなういういしい不安と諦念のような思いが詠われている。 |
![]() 西行の「行方も知らぬわが思い」の歌碑。 |
「小夜の中山公園」へと続く坂道の途中には、年季の入った石の五輪塔や地蔵さんがころがっている。このあたり一帯は経塚と言われており、この近くにある久延寺が戦火で焼失した時に、多数の経典が灰になりここに埋められたと伝えられている。 |
![]() 芭蕉の「命なり」の句碑。 |
芭蕉の「命なり」 小夜の中山公園を後にして、日坂方面に向かって旧東海道を1.5Kmほど進んでいくと、芭蕉の「涼み松」があったといわれる場所がある。 命なりわずかの笠の下涼み 「のざらし紀行」の中にはないが、小夜の中山で詠んだといわれる句である。 |
![]() 「涼み松」から見た風景。整備された茶畑が美しい。 |
碑の傍に松の木が2本植えられている。まだ小さくて下涼みできる状態ではないが、かって大きな松の木があったのだという。芭蕉がその松の下で涼んだのだのだろう。 |
鴫立沢の西行庵 |
心なき身の鴫立沢
秋、ものへまかりける道にて 鴫立庵は、神奈川県大磯町大磯1289にある。JR大磯駅から、国道1号線沿いに二宮駅方向にあるいて10分程のところ。 |
「江の島弁財天道標と西行もどり松」 |
西行戻り松 湘南モノレールの終点。湘南江ノ島駅の近く、本蓮寺の前の通りに面して「西行戻り松」がある。平安・鎌倉時代の話にしては、松の木が細く小さい。 「枝はが西に傾いているのが特徴」というが、この松はとてもそんな風には見えない。ただ幹が途中で左に傾いているが、この方向が西なのだろうか。 |
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鶴岡八幡宮の鳥居のあたりでうろうろしていた老僧は、何をしに鎌倉にきたのだろうか。東大寺沙金勧請のため奥州藤原氏を訪ねることの報告と道中安全の保証のためだったはず。それなのに、頼朝との会談の席での西行の対応が、なんともつっけんどんで、ほとんどけんか腰になっている。もらった銀猫も遊んでいた子供に投げ捨てるようにあげてしまう。 |
西行の源頼朝との出会いは、なんとも不思議な感じがする。 西行の受け答えがなんとも怪しい。西行は、平泉の藤原秀衡とは遠戚であり、かっては北面の武人であり、崇徳院や鳥羽院に仕え、平清盛とも親交があった。新興の関東武士勢力より、朝廷や平家に近しいものを感じていたはずた。 |
![]() 遊行柳の遠景。 |
奥州街道の芦野から田のあぜ道を約200m入ったところにある。 みちのくの歌枕の情景として最もぴったりする景色のひとつである。稲穂の波の中に大きな柳の木が2本たっている風景は、すがすがしく美しくしい。今も昔も変わらぬ東北のいや日本の原風景のひとつにちがいない。 遊行柳の根元の田のすぐ横に石碑が立っている。芭蕉の句である。 田一枚植えて立去る柳かな 芭蕉のこの句は、西行の次の歌に基づいている。 |
![]() 西行の歌碑、「道の辺に 清水ながるる 柳蔭 しばしとてこそ 立ちとまりつれ」 (新古今集 262) |
道の辺に 清水ながるる 柳蔭 しばしとてこそ 立ちとまりつれ (新古今集 262) 芭蕉の「田一枚」は、西行のこの歌と謡曲「遊行柳」があってはじめて、この句の味がわかるというもの。 |
![]() 白河の関の入り口? |
心を留むる白川の関 [地図]
「みちの国へ修行してまかりけるに、白川の関に留まりて、所柄にや、常よりも月おもしろくあはれにて、能因が「秋風ぞ吹く」と申しけん折、何時なりけんと思ひ出でられて、名残り多くおぼえければ、関屋の柱に書きつけける 西行もまた、能因をものすごく意識している。いや、能因の歌枕を追いかけての旅というのがあたっているようだ。 能因法師の歌 そして芭蕉が「おくのほそ道」で西行の後を追う。さらに現代の野次馬たちが。 |
![]() 白河の関跡か。 |
「心許なき日かず重なるままに、白河の関にかかりて旅心定りぬ。「いかで都へ」と便り求めしもことわりなり。・・・」(「おくのほそ道」)。芭蕉もいちおう、白川の関にたった感慨を名文調で表現したが、句はよんでいない。 曾良の「卯の花をかざしに関の睛着かな」をあげているだけ。 江戸時代には、この関はなかったし、ここ以北を異境とする感覚はなくなっていただろう。ここでの芭蕉の句はない。 「『白河の関いかにこえつるや』と問。「長途のくるしみ、身心つかれ、且は風景に魂うばわれ、懐旧に腸を断ちて、はかばかいう思ひめぐらさず。」としながらも、 「風流の初めやおくの田植うた」 曾良がうまい句を作ったが、芭蕉はなぜか「風流や・・・」と白川の関のあたりの田植歌を聞いて風流の旅のはじまり、と感じたままを詠んだ。芭蕉の風流心がみちのくと都とのありきたりの表現に納得せず、この句しか許さなかったのだろう。 |
芭蕉は「笠島はいづこさ月のぬかり道」と詠んだ。 芭蕉は五月のぬかり道の中で笠島を訪ねることができなかったが、西行はここを探しあてられたようだ。実際はどうだったのか不明だが。 |
藤原実方は、藤原一門のなかでも由緒ある家柄の生まれで、美貌と風流を兼ね備えた貴公子、源氏物語の光源氏のモデルともいわれている。「歌枕見て参れ」との勅命で各地の名所旧跡を訪ね歩いた。名取郡笠島道祖神の前で落馬し、それがもとでこの地でなくなったと伝えられている。 |
笠島・藤原実方の墓の入り口にある「かたみのすすき」。まことに残念な気配ではある。 |
「みちのくににまかりけるに、野中に、常よりもとおぼしき塚の見えれるを、人に問ひければ、中将の御墓と申すはこれが事なりと申しければ、中将とは誰がことぞと又問ひければ、実方の御ことなりと申しける、いと悲しかりけり。そらぬだにものあはれにおぼえけるに、霜枯れの薄ほのぼのと見え渡りて、後にかたらむも、詞なきやうにおぼえて この西行と芭蕉の句のせいで、塚はよく整備されていて、雰囲気は楽しむことができる。入り口には西行の歌に寄せて、ススキが植えられていた。左の写真だが、「かたみのすすき」という看板が立っていた。 |
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西行は平泉の途中、松島にも立ち寄ったのだろうか。松島海岸駅の裏山に「西行戻し松公園」がある。ここでも「西行戻し」の伝説があるようだ。 「西行戻しの松 歌聖とまでいわれる西行が、「冬萌(ほ)きて夏枯れ草」を刈りにいくといったような、歌とも戯言ともつかないような童のことばに、どうして恐れをなして引き返すといった伝説が残るのか。 高橋英夫著「西行」(岩波新書)では、「西行伝説」の章で、柳田国男の「伝説」(岩波新書)の結びの記述を引いて、つぎのようにいっている。 吉本隆明は「西行論」・「僧形論」のなかで次のようなヒントを記している。 |
![]() 高館より北上川を望む。右手に束稲(たばしね) 山が続く。 |
西行が出た佐藤家と平泉の藤原家とは遠縁である。 |
北上川と束稲(たばしね) 山。高館より。 中尊寺の参道の途中にある西行歌碑「聞きもせず束稲山の桜花・・・」 |
「十月十二日、平泉にまかりつきたりけるに、雪ふり嵐はげしく、ことの外に荒れたりけり。いつしか衣川見まほしくてまかりむかひて見けり。河の岸につきて、衣川の城しまはしたる、ことがらやうかはりて、ものを見るここちしけり。汀(なぎさ)氷りてとりわけさびしければ
「みちのくにに、平泉にむかひて、たはしねと申す山の侍るに、こと木は少なきやうに、桜のかぎり見えて、花の咲きたるを見てよめる 衣川は、上の写真の左手より北上川に流れ込んでいる。当時の衣川がどのあたりを指していたのかはわからないが、高館より見た北上川がふさわしいように思う。 束稲(たばしね) 山は、当時は、吉野にも劣らない桜の名所だったようだ。吉野の桜を愛好してやまない西行は束稲山の桜に心動かされたようだ。白洲正子氏の話では、桜の木は山火事にあって、とうの昔に消え失せてしまったようだ。 近年は、西行の桜を復興させようと植樹がおこなわれているとか。 |
![]() 中尊寺・金堂への入り口。 |
奥州平泉の藤原氏の栄華をみて、西行は何をおもったのか。 俵藤太秀郷による平将門の乱の平定や前九年・後三年の役などにも、思いをはせたのだろうか。それとも暗雲が覆う鎌倉・平泉の関係にまた繰り返す戦役の惨禍を見ていたのだろうか。 出家し世を捨てた西行には、平泉の藤原氏の栄華をみても、むしろ無常観を深くするばかりで心を動かされることはなかったのではないか。特に、金堂のような西方浄土を願う人の願いの切なさとはかなさに、西行はただ口を閉じるしかなかったのではないか。 二度目の平泉では、頼朝から逃れた義経が、西行と前後して、平泉に藤原氏に保護を求めている。西行は、ここで義経に会ったのだろうか。 |
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