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カルナック神殿・ルクソール神殿 |
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![]() カルナック神殿へのアプローチ。スフィンクス(頭は羊、胴体はライオン)の参道から第1塔門を見たところ。 |
カルナック神殿 [地図] カルナック神殿はルクソールにある。ルクソールはエジプト帝国の首都としてテーベと呼ばれ、何世紀にも渡って栄華の中心にあったが、現在ではその面影をみつけるのは難しい。中王国時代のBC2000年頃から数度にわたって首都がおかれたが、BC672年の異民族の略奪を受けたことに始まりアレキサンダー大王遠征後のプトレマイオス軍により完全に破壊され、ローマの支配下の時代には街は瓦礫の山だったという。そのためか、この場所はマーマ軍の駐屯地になっていたようだ。 |
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右の絵は例によって、ダビッド・ロバーツが1838〜9年に描いたもの。160年前のカルナック神殿の様子。下の写真の現在のカルナック神殿。![]() 第1塔門を入ると第1中庭があり、そこから第2塔門と大列柱室が見える。第2塔門の前に神官の巨像が向かい合っているが、ダビッド・ロバーツの絵にはそれがない。修復時に立てられたようだ。大きな石柱が1本たっているが、第1中庭はこのような石柱が何本も立つ廊下になっていたようだ。現在は石柱の土台が並んでいるが、160年前には絵にあるように、倒れた石柱の輪切りの石が転がっていた。おそらく遺跡全体の3分の1が砂漠に埋まっていたものと思われる。写真に見えるように石柱の下に観光客がむらがり、右の絵の石柱には160年前の観光客?がむらがっている。時代は移っても観光客の生態は変わらないようだ。 |
![]() ダビッド・ロバーツのカルナック神殿・第2塔門の絵。石柱が輪切りになって倒れている。この絵のほうが生々しくてすばらしい。 |
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大列柱室。石柱が大きすぎて写真に入り切らない。柱がじゃまをして昼間の光も入らない。160年前は3分の1が砂に埋もれ、列柱のレリーフにも色がだいぶ残っている。列柱の向こうにオベリスクが見える。ファラオたちは帝国の領土を拡張し、世界の富が首都テーベとカナック神殿に注がれたというのは本当のことなのだろう。 |
![]() 160年前の大列柱室。 |
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列柱室は、開花パピルス柱(柱の上が開花状になっている石柱。パピルスの茎と花のイメージ。)が中央に12本、未開花パピルス柱(柱の上がつぼみ状になっている石柱)が122本もある。高さ15m、石柱の周りは大人11〜12人が手をつないでようやく抱えられる大きさ。まさに石柱の森。柱は、王や王妃や神の姿のレリーフ、ヒエラグリフ、カルツーシュで埋め尽くされている。 なぜ、こんな太い石の柱が134本も立てられたのか。 権力や富の誇示か。神であることの証明か。ギザのピラミッドや太い石柱といい、巨石文化には共通する人間表現の何かがあるようだ。人間を超越し神の領域に入ろうとする意志にようなものを感じる。この意志には、明らかに宗教的なものを感じる。アモン神=空気の神、「隠れた者」とは何か。ともかく、カルナック神殿の列柱の異常な太さがいつまでも印象として残った。 |
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円柱は1個の石を削りだしたものではない。輪切りの円柱の石を10個積み上げたものである。石と石を積み重ねる隙間に何か接着剤になるような粘土を入れているのかも知れない。 |
![]() 一枚岩を切り出して造るオベリスク。文明人?にはこの形に異常な興味を示したようだ。みんなエジプトから持ち出して自国の公園や広場に建てている。 |
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![]() 広場に展示されている折れたオベリスクの先端部分。 |
オベリスクは多くは19世紀に国外に持ち出されたが、当時の技術でオベリスクをナイル川まで移動させ、帆船に載せて移動し、さらにフランスやイギリスにまで持って行くだけでも困難の多いとてつもない大事業だった。また、オベリスクを予定の場所に立てる作業も大変で、やぐらによる特別の仕掛けを使って立ち上げた。 オベリスクは何のために存在するのかよくわからないが、見ているとその偉大さと美しさに心打たれる。紀元後、オベリスクを見た権力者の多くもその魅力に惹かれて、自分の国に持ち帰ったのだろう。ピラミッドやレリーフのセンスには同様の洗練された意匠を感じる。 トトメスV世の祝祭殿には、キリスト教徒(コプト教徒)が侵入してきたとき教会として使われていたので、角柱の上のしっくいに聖母マリアと「最後の晩餐」の絵が見られる。世界でもっとも古い「最後の晩餐」の絵だそうだ。 |
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![]() キリスト教徒(コプト教徒)が侵入してきたとき教会として使われていたので、角柱の上のしっくいに聖母マリアと「最後の晩餐」の絵が見られる。世界でもっとも古い「最後の晩餐」の絵だそうだ。 |
ヒエログリフ(古代エジプト文字)やカルツーシュ(王の名の枠)とともにすばらしい壁画やレリーフがあったようだ。現在、壁画として見られるものはどれも破損がひどく断片的なものが多い。自然に3500年の月日が崩したものもあれば、異民族により破壊されたもの、コプト教徒により壊されたもの、さらにヨーロッパ人により持ち出されたものがある。残念としかいいようがない。 |
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左写真は裏から見たオベリスクと列柱室。裏は瓦礫の石が散在していた。上の写真はコガネムシの置物とその周りを7回周ると仕合わせになれると信じている人々。筆者も7周した。 |
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ルクソール神殿の第一塔門。 |
ルクソール神殿 [地図] カルナック神殿から南へ2.5Km、ルクソール神殿がある。アモン神の妻ムート神をまつった神殿である。 |
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![]() デビッド・ロバーツのルクソール神殿の絵。1/3は砂に埋もれ、右手前には遺跡のようなものが見える。160年前もオベリスクは1本しかたっていないことがわかる。ルクソール神殿はもはや祈りの場ではなく、生活と観光の施設だったようだ。 |
1805年、トルコのスルタンによりエジプト総督に任命されたムハンマド・アリは、マムルーク族を虐殺、排除し、エジプトの近代化を推し進めようとしていた。フランス人、イギリス人、ドイツ人や自称技術者たちがアリに群がっていた。アリはエジプトの近代化と産業振興のため、ヨーロッパからの機械や技術を導入する必要があった。しかし、その代償としてヨーロッパ人に遺跡の発掘権と持ち出しを認めざるを得なかった。後進国エジプトの悲しい現実があった。 1本しかないオベリスクがエジプト遺跡の現実を物語っているようだ。もう1本は、オポレオンがムハンマド・アリに当時としては珍しい大時計をプレゼントしたが、イスラム教徒として義理堅いアリはそのお礼としてナポレオンに差し上げたもの。アリはほとんど冗談で、持っていっていいよといったのに、ナポレオンは軍隊を動員して本当に持ち出してしまったのだという。 |
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ラムセスU世の中庭(左の写真)には、円柱と石像が交互に密集して立っている異様な空間があった。いかにも富と権力が有り余っているといった感じ。古代エジプトはやはり不思議に満ちている。 |
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照明に浮かぶルクソール神殿。日本にはこのような塔門というようなものは存在しない。宗教施設にこのような門を構想させるものは、権力と権威の誇示しかないだろう。宗教はやはり、為政者の治世のツールとして使われていたのだろう。 |
ルクソール神殿の中にイスラムのモスクがある。なぜこんなことになっているのか。モスクを建てた当時は神殿は瓦礫の山で、そこにモスクを建てることに問題がなかったからか。何かいいかげんな感じもするが、それでよいのかもしれない。エジプトは宗教に対して寛容であることを美徳としている。エジプトのイスラム教は、エジプト的キリスト教のコプト教や古代エジプトの神々に対しても、寛容であるらしい。 |
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ルクソールのはずれで見た農村風景。人は街中でもロバや馬に乗って移動する。馬車は当たり前。3500年前と何がかわったのだろう。何が変わらないのだろう。変わらないものは人々の暮らしの・・・。 |
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