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幻住庵記(げんじゅうあんのき) 芭蕉47歳 |
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幻住庵 [地図] |
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![]() 「幻住庵」の門。門と幻住庵は平成3年「ふるさと吟遊芭蕉の里事業」により新築されたもので、新しく立派。芭蕉の住んだ幻住庵とは別物。 鴨長明や西行などの隠遁者は、貧しい山居生活をしていたのだろうか。彼らは下鴨神社の神官の息子であり荘園領主の息子であって、なんらかの生活の糧の裏付けがあった。我らが芭蕉先生は、どうやって生活の糧を得ていたのだろうか。幻住庵は、近江の門人膳所藩士の曲水の伯父が建てたものだが住む人もなく荒れていた。芭蕉は膳所の義仲寺からここに移り住んだ。元禄3年4月から7月までの4か月間だった。 |
近津尾神社の横の小山に幻住庵がある。このあたりに芭蕉が住んでいた幻住庵があったのだろう。 屋根は雨漏りし、壁は落ち、きつねやたぬきが住んでいるような庵だという。しかし、今は立派な庵になって、その中の部屋で管理人さんと思しき人がテレビを見ていた。芭蕉の幻住庵をしのぶすべもない。 「行く河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまる例なし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」(鴨長明「方丈記」のはじめ) |
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![]() 「幻住庵」 どうも芭蕉の住んでいた幻住庵とは別物のようで、芭蕉好みの侘び住まいではない。 |
「おくのほそ道」で芭蕉は、黒羽の雲巌寺にある仏頂和尚の山居跡を訪ねた。仏頂和尚は芭蕉の参禅の師であり、江戸で交流があった。
竪横(たてよこ)の五尺にたらぬ草の庵 むすぶもくやし雨なかりせば 人が生きていくのに、本当は草の庵さえ必要ではないのだ。芭蕉はこの歌に感動して、和尚の山居跡をたずねた。それ以来、芭蕉のなかには山居の侘び住まいのイメージがあったのだろう。 |
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![]() この木がその「先づたのむ椎の木もあり夏木立」と根っこの句碑。 この椎の木が芭蕉当時のものかどうかは不明だが、木の中心ががらんどうになっていて、ようやく命を助けてもらったという風だった。 |
しかし、「方丈記」の生き難い時代と、芭蕉の江戸・元禄の時代では、 時代がちがう。芭蕉は仏頂和尚とも、長明とも違って、芭蕉の時間を生きるしかない。芭蕉は、このころには、俳諧の人気宗匠として多くの門人に囲まれ、自分の望んだ納得できる生活をしていたのだろう。隠遁・隠棲といっても世捨ての生活というより、俳諧の新しい境地を築き得た充足感が感じられる。 「さすがに、春の名残も遠からず、つつじ咲き残り、山藤松にかかりて、時鳥しばしば過ぐるほど、宿かし鳥のたよりさへあるを、啄木のつつくともいとはじなど、そぞろに興じて、魂呉・楚東南に走り、身は瀟湘・洞庭に立つ。山は未申にそばだち、人家よきほどに隔たり、南薫峰よりおろし、北風湖を侵して涼し。比叡の山、比良の高根より、辛崎の松は霞をこめて、城あり、橋あり、釣たるる舟あり、笠取に通ふ木樵の声、ふもとの小田に早苗とる歌、蛍飛びかふ夕闇の空に水鶏のたたく音、美景物として足らずといふことなし。」 |
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![]() 「先づたのむ椎の木も有夏木立」 の素朴な句碑。 |
「山居といひ、旅寝といひ、さる器たくはふべくもなし。木曽の桧傘、越の菅蓑ばかり、枕の上の柱にかけたり。」 武士として仕官したかったがかなえられず、 仏門に入ろうととしたがうまくいかず、花鳥ににうつつをぬかして、無能無才にして俳諧の道一筋に生きてきた。我が人生に悔いなし、といったところか。 神社の横、大きくはないが椎の木が1本たっている。その根元の石碑には、 芭蕉にとって、いっしょに行く春を心行くまで惜しむのは、「近江の人」でなくてはならなかった。 |
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| poto by miura 2006.8 | ||