元禄2年7月、1689年、芭蕉46歳。

奥の細道の旅の途中で書いたものだが、右の最終稿になるまでいくつかの試案を書いている。芭蕉が出雲崎にいた7月4日頃だが、この日は曾良の日記では「 夜中、雨強降」となっている。
有名な「 あら海や佐渡に横たふあまの川」は、新潟県の出雲崎に泊まった時に読んだものとされているが、芭蕉は句を残しただけで出雲崎や佐渡については「 おくのほそ道」では何も触れていない。「 鼠(ねず)の関をこゆれば、越後の地に歩行を改めて、越中の国市振の関に到る。此の間九日、暑湿(しよしつ)の労に神をなやまし、病おこりて事をしるさず。」とつれない。
そのためか「 銀河の序」 という一文を残している。
曇りや雨模様ながら、芭蕉は佐渡を見たのだろう。佐渡の流人の島としての歴史や黄金の採掘などが芭蕉の旅愁と詩心をくすぐった。
俳文はどうということないが、「 あら海や佐渡に横たふあまの川」がすばらしい。流人の島への宇宙的な架け橋、俳諧のスケールと旅情が溶け込んで、新境地の句となっている。


「 銀河の序」

北陸道に行脚して、越後の国出雲崎ちいふ所に泊まる。彼(かの)佐渡がしまは、海の面十八里、滄波(そうは)を隔て、東西三十五里に、よこおりふしたり。みねの嶮難(けんなん)の隈隈まで、さすがに手にとるばかり、あざやかに見わたさる。むべ此嶋は、こがねおほく出て、あまねく世の宝となれば、限りなき目出度島にて侍るを、大罪朝敵のたぐひ、遠流(おんる)せらるるによりて、ただおそろしき名の聞こえあるも、本意なき事におもひて、窓押開きて、暫時(ざんじ)の旅愁をいたはらんむとするほど、日既に海に沈で、月ほのくらく、銀河半天にかかりて、星きらきらと冴たるに、沖のかたより、波の音しばしばはこびて、たましいけづるがごとく、腸ちぎれて、そぞろにかなしびきたれば、草の枕も定らず、墨(すみ)の袂(たもと)なにゆへとはなくて、しぼるばかりになむ侍る。

あら海や佐渡に横たふあまの川

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