奥の細道           もどる
1689年、芭蕉46歳の旅
蕪村は16あまりの「 奥の細道画巻」を残している。この俳画がそれぞれ少しずつ違っているが、どれもすばらしい。ついついお借りして該当する位置においてみた。楽しんでください。

 

 

 


 

 

<序章>
 月日は百代(はくたひ)の過客(くわかく)にして、行きかふ年もまた旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらへて老を迎ふる者は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思やまず、海浜にさすらへ、去年(こぞ)の秋江上(こうじょう)の破屋(はおく)に蜘(くも)の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立てる霞の空に、白川の関越えんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神(だうそじん)のまねきにあひて取る物手につかず、股引(もゝひき)の破れをつづり笠の緒付けかへて、三里に灸(きゅう)すうるより、松島の月まづ心にかゝりて、住める方は人に譲り、杉風(さんぷう)が別墅(べつしよ)に移るに、
  草の戸(と)も住みかはる代(よ)ぞ雛(ひな)の家
表八句を庵の柱にかけおく。
<旅立ち> 
  弥生も末の七日、明けぼのの空朧々(ろうろう)として、月は有明にて光をさまれるものから、不二(ふじ)の峯幽(かすか)にみえて、上野・谷中の花の梢又いつかはと心細し。睦ましきかぎりは宵よりつどひて、舟にのりて送る。千住といふ所にて舟をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻の巷(ちまた)に離別の涙をそゝぐ。
  行く春や鳥啼(な)き魚の目は泪(なみだ)
 
これを矢立(やたて)の初めとして、行く道なほ進まず。人々は途中に立ち並びて、後影の見ゆるまではと見送るなるべし。
<草加>
 ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚、たゞかりそめに思ひ立ちて、呉天に白髪の恨を重ぬといへども、耳に触れていまだ目に見ぬさかひ、もし生きてかへらばと定めなき頼みの末をかけ、其の日漸く早加といふ宿にたどり着きにけり。痩骨(そうこつ)の肩にかゝれる物まづ苦しむ。只身すがらにと出で立ち侍るを、紙子(かみこ)一衣(いちえ)は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨・筆のたぐひ、あるはさりがたき餞(はなむけ)などしたるは、さすがに打捨(うちす)てがたくて、路次(ろし)のわづらひとなれるこそわりなけれ。
<室の八島>
 室の八島に詣(けい)す。同行曾良が曰く、「 此の神は木の花咲や姫(このはなさくやひめ)の神と申して、富士一体なり。無戸室(うつむろ)に入りて焼け給ふ誓(ちかひ)のみ中に火々出見(ほゝでみ)の尊(みこと)生れ給ひしより、室の八島と申す。又煙をよみ習はし侍るもこの謂(いは)れなり」。将(はた)、このしろといふ魚を禁ず。縁記の旨世につたふ事も侍りし。
<仏五左衛門>
 三十日(みそか)、日光山の麓に泊る。主の云ひけるやう、「 我名を仏五左衛門といふ。よろづ正直を旨とする故に、人かくは申し侍るまゝ、一夜の草の枕も打ち解けて休み給へ」といふ。いかなる仏の濁世塵土(ぢょくせじんろ)に示現(じげん)して、かゝる桑門(さうもん)の乞食順礼(こつじきじゆんれい)ごときの人をたすけ給ふにやと、主のなすことに心をとゞめてみるに、たゞ無智無分別にして正直偏固(へんこ)の者也。剛毅木訥(がうきぼくとつ)の仁に近きたぐひ、気稟(きひん)の清質、尤も(もっとも)尊(たっと)ぶべし。
<日光>
 卯月朔日(うづきついたち)、御山(おやま)に詣拝(けいはい)す。往昔(そのかみ)、此の御山を「 二荒山(ふたらさん)」と書きしを、空海大師開基(かいき)の時「 日光」と改め給ふ。千歳未来をさとり給ふにや、今この御光(みひかり)一天にかゞやきて、恩沢(おんたく)八荒(はつくわう)にあふれ、四民安堵の栖(すみか)穏かなり。猶(なほ)、憚(はゞかり)多くて筆をさし置きぬ。
  あらたふと青葉若葉の日の光
 
黒髮山(くろかみやま)は、霞かゝりて雪いまだ白し。
  剃り捨ててくろかみ山に衣更  曾良
 
曾良は河合氏にして惣五郎と云へり。芭蕉の下葉に軒をならべて、予が薪水(しんすい)の労をたすく。このたび松島・象潟の眺め共にせんことを悦び、かつは羈旅(きりょ)の難をいたはらんと、旅だつ暁髪を剃りて墨染(すみぞめ)にさまをかへ、惣五を改めて宗悟とす。仍(よっ)て黒髪山の句有り。「 衣更」の二字、力ありて聞ゆ。
 二十余丁山を登つて滝有り。岩洞の頂より飛流して百尺、千岩の碧潭(へきたん)に落ちたり。岩窟に身をひそめ入りて、滝の裏より見れば、裏見の滝と申し伝へ侍るなり。
  暫時(しばらく)は滝に籠るや夏(げ)の初め

<那須>

 那須の黒羽といふ所に知る人あれば、これより野越にかゝりて直道(すぐみち)を行かんとす。遥(はるか)に一村を見かけて行くに、雨降り日暮る。農夫の家に一夜をかりて、明くれば又野中(のなか)をゆく。そこに野飼の馬あり。草刈るをのこに歎(なげ)きよれば、野夫といへども、さすがに情(なさけ)しらぬにはあらず。 「 いかゞすべきや。されども此の野は縱横にわかれて、うひうひしき旅人の道ふみたがへん、あやしう侍れば、此の馬のとゞまる処にて馬を返し給へ」と貸し侍りぬ。ちひさき者ふたり、馬の跡したひて走る。独りは小姫にて、名を「 かさね」と云ふ。聞きなれぬ名のやさしかりければ、
  かさねとは八重撫子の名なるべし  曾良

やがて人里に至れば、あたひを鞍壺(くらつぼ)に結ひつけて馬を返しぬ。

<黒羽>
 黒羽の館代浄坊寺何がしの方に音づる。思ひがけぬあるじの悦び、日夜語りつゞけて、其の弟桃翠(たうすい)などいふが、朝夕勤めとぶらひ、自らの家にも伴ひて、親属の方にも招かれ、日を経るまゝに、ひと日郊外(こうがい)に逍遥して、犬追物(いぬおうもの)の跡を一見し、那須の篠原を分けて、玉藻(たまも)の前の古墳をとふ。
それより八幡宮に詣づ。与市扇の的を射し時、「 別しては我が国氏神正八幡」と誓ひしも、此の神社にて侍ると聞けば、感応殊にしきりに覚えらる。暮るれば桃翠宅に帰る。
 修験光明寺といふ有り。そこに招かれて、行者堂を拝す。
  夏山に足駄(あしだ)を拝む首途(かどで)哉

<雲厳寺>
 当国雲岸寺(うんがんじ)のおくに、仏頂和尚山居の跡あり。
  縦横の五尺にたらぬ草の庵
     むすぶもくやし雨なかりせば
と、松の炭して岩に書付侍りと、いつぞや聞え給ふ。其の跡見んと雲岸寺に杖を曳(ひ)けば、人々すゝんで共にいざなひ、若き人多く道の程うちさわぎて、覚えず彼の麓に至る。山は奥あるけしきにて、谷道遥に松杉(まつすぎ)黒く苔しただりて、卯月の天今猶寒し。十景尽くる所、橋を渡つて山門に入る。
 さて、かの跡はいづくのほどにやと、後の山によぢのぼれば、石上の小庵岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死関(しかん)、法雲法師の石室をみるがごとし。
  木啄(きつつき)も庵はやぶらす夏木立

と、取りあへぬ一句を柱に残し侍りし。
<殺生石・遊行柳>
 是より殺生石に行く。館代より馬にて送らる。此の口付のをのこ、「 短冊得させよ」と乞ふ。やさしき事を望み侍るものかなと、
  野を横に馬引きむけよほとゝぎす
 
殺生石は温泉(いでゆ)の出づる山陰にあり。石の毒気いまだ滅びず、蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほど重なり死す。 又清水ながるゝの柳は、蘆野(あしの)の里に有りて、田の畔(くろ)に残る。此の所の郡守戸部某(なにがし)の、「 此の柳みせばや」など、折々にの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此の柳の蔭にこそ立ちより侍りつれ。
  田一枚植て立去る柳かな
<白川の関>
 心許(こころもと)なき日かず重なるまゝに、白河の関にかゝりて旅心定りぬ。「 いかで都へ」と便り求めしもことわりなり。中にも此の関は三関の一にして、風騒(ふうさう)の人心をとどむ。秋風を耳にのこし、紅葉を俤(おもかげ)にして、青葉の梢猶あはれなり。卯の花の白妙(しろたへ)に、茨の花の咲きそひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し衣裳を改めし事など、清輔の筆にとゞめ置かれしとぞ。
  卯の花をかざしに関の晴着哉  曾良

<須賀川>

 とかくして越え行くまゝに、阿武隈川をわたる。左に会津根高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸下野の地をさかひて山つらなる。影沼といふ所を行くに、今日は空曇りて物影うつらず。須賀川の駅に等窮(とうきゅう)といふものを尋ねて、四、五日とゞめらる。先づ「 白河の関いかに越えつるや」と問ふ。「 長途の苦しみ、身心つかれ、かつは風景に魂うばはれ、懐旧(かいきゅう)に腸(はらわた)を断ちて、はかばかしう思ひめぐらさず。
  風流の初めやおくの田植うた

無下に越えんもさすがに」と語れば、脇・第三とつゞけて三巻となしぬ。
 此の宿の傍に、大きなる栗の木蔭をたのみて、世をいとふ僧有り。橡(とち)ひろふ太山(みやま)もかくやと間(そゞろ)に覚えられて、物にかきつけ侍る。其の詞、
  栗といふ文字は、西の木と書きて、西方浄土に便ありと、
  行基菩薩の一生杖(つえ)にも柱にも此の木を用ひ給ふとかや。
 世の人の見つけぬ花や軒の栗

<あさか山>

 等窮が宅を出でて五里ばかり、檜皮(ひはだ)の宿をはなれてあさか山あり。路より近し。此のあたり沼多し。かつみ刈る比(ころ)もやゝ近うなれば、いづれの草を花がつみとはいふぞと、人々に尋ね侍れども、更に知る人なし。沼を尋ね、人にとひ、「 かつみ/\」と尋ねありきて、日は山の端にかゝりぬ。二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福島にやどる。
<しのぶの里>
 明くれば、しのぶもぢ摺(ずり)の石をたづねて忍ぶの里に行く。遥か山陰(やまかげ)の小里に、石半ば土に埋れてあり。里の童部(わらべ)の来りて教へける、「 昔は此の山の上に侍りしを、往来(ゆきき)の人の麦草をあらして、此の石を試み侍るをにくみて、此の谷につき落せば、石の面(おもて)下(しも)ざまに伏したり」といふ。さもあるべき事にや。
  早苗とる手もとや昔しのぶ摺(ずり)

<佐藤庄司が旧跡>

 月の輪の渡を越えて、瀬の上といふ宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は、左の山ぎは一里半ばかりに有り。飯塚の里、鯖野(さばの)と聞きて、尋ね/\行くに、丸山といふに尋ねあたる。是庄司が旧館也。麓(ふもと)に大手の跡など人の教ふるに任せて泪をおとし、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし、先づ哀なり。女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かなと袂をぬらしぬ。堕涙(だるゐ)の石碑も遠きにあらず。寺に入りて茶を乞へば、こゝに義経の太刀、弁慶が笈(おひ)をとゞめて什物とす。
  笈(おひ)も太刀も五月にかざれ紙幟(かみのぼり)

五月朔日(ついたち)のことなり。
<飯塚>
  其の夜飯塚にとまる。温泉(いでゆ)あれば、湯に入りて宿をかるに、土座に莚(むしろ)を敷きて、あやしき貧家也。灯もなければ囲炉裏の火かげに寝所をまうけて臥す。夜に入りて、雷鳴り雨しきりに降りて、臥せる上より漏り、蚤・蚊(のみか)にせゝられて眠らず。持病さへおこりて、消え入るばかりになん。短夜(みじかよ)の空もやうやう明くれば、又旅立ちぬ。猶夜の余波(なごり)、こゝろ進まず。馬かりて桑折(こをり)の駅に出づる。遥なる行末をかゝへてかゝる病(やまひ)覚束なしといへど、羇旅(きりょ)辺土の行脚、捨身無常の観念、道路に死なん、是天の命なりと、気力聊(いさゝ)かとり直し、路縱横にふんで伊達の大木戸を越す。
<笠島>
  鐙摺(あぶみずり)、白石の城を過ぎ、笠島の郡(こほり)に入れば、藤(とおの)中将実方(さねかた)の塚はいづくのほどならんと、人にとへば、「 これより遥か右に見ゆる山際の里を蓑輪・笠島と云い、道祖神の社(やしろ)、かたみの薄(すゝき)、今にあり」と教ふ。このごろの五月雨に道いと悪しく、身つかれ侍れば、よそながら眺めやりて過ぐるに、蓑輪・笠島も五月雨の折にふれたりと、
  笠島はいづこ五月のぬかり道

岩沼に宿る。
<武隈>
 武隈の松にこそ、目さむる心地はすれ。根は土際(つちぎは)より二木(ふたき)にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。先づ能因(のういん)法師思ひ出づ。往昔(そのかみ)陸奥の守にて下りし人、此の木を伐(き)りて名取川の橋杭(はしぐひ)にせられたる事などあればにや、「 松は此のたび跡もなし」とは詠みたり。代々(よよ)、あるは伐り、あるいは植ゑつぎなどせしと聞くに、今はた千歳(ちとせ)の形とゝのほひて、めでたき松のけしきになん侍りし。
  「 武隈の松みせ申せ遅桜」と、挙白といふものの餞別したりければ、
 桜より松は二木(ふたき)を三月ごし

<宮城野>

 名取川を渡りて仙台に入る。あやめふく日也。旅宿を求めて、四五日逗留す。ここに画工(がこう)加右衛門といふ者あり。聊(いさゝか)心あるものと聞きて、知る人になる。この者、年比さだかならぬ名どころを考へ置き侍ればとて、一日(ひとひ)案内す。宮城野の萩茂りあひて、秋の気色思ひやらるゝ。玉田・横野・つゝじが岡はあせび咲くころなり。日影も漏らぬ松の林に入りて、こゝを木の下といふとぞ。昔もかく露深ければこそ、「 みさぶらひみかさ」とは詠みたれ。薬師堂・天神の御社など拝みて、其の日はくれぬ。猶、松島・塩竈の所々画にかきて送る。かつ、紺の染緒(そめを)つけたる草鞋(わらじ)二足餞(はなむけ)す。さればこそ、風流のしれもの、こゝに至りて其の実を顕す。
  あやめ草足に結ばん草鞋(わらぢ)の緒

<壺の碑>

 
かの画図(えづ)に任せてたどり行けば、おくの細道の山際に十符(とふ)の菅有り。今も年々十符(とふ)の菅菰(すがごも)を調(ととの)へて国守に献ずといへり。
  壺碑(つぼのいしぶみ)  市川村多賀城に有り。
 つぼの石ぶみは、高さ六尺余、横三尺ばかりか。苔を穿(うが)ちて文字幽(かすか)也。四維国界の里数をしるす。「 此城、神亀(じんき)元年、按察使鎮守府(あぜちちんじゅふ)将軍大野朝臣(あそん)東人之所里也。天平宝字六年、参議東海東山節度使、同(おなじく)将軍恵美朝臣あさかり修造而。十二月朔日(ついたち)」 と有り。聖武皇帝の御時に当れり。昔よりよみ置ける歌枕、多く語り伝ふといへども、山崩れ川落ちて道改まり、石は埋れて土にかくれ、木は老いて若木にかはれば、時移り、代変じて、其の跡たしかならぬ事のみを、こゝに至りて疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚の一徳、存命の悦び、羇旅(きりょ)の労を忘れて泪も落つるばかり也。
<末の松山>
 それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。末の松山は、寺を造りて末松山(まつしようざん)といふ。松のあひあひみな墓原(はかはら)にて、はねをかはし枝を連ぬるちぎりの末も、終(つひに)はかくのごときと、悲しさもまさりて、塩竈の浦に入相(いりあひ)のかねを聞。五月雨の空聊(いさゝ)か晴れて、夕月夜かすかに、籬(まがき)が島もほど近し。蜑(あま)の小舟こぎつれて、肴(さかな)分つ声々に、「 つなでかなしも」と詠みけん心もしられて、いとゞ哀なり。
その夜目盲(めくら)法師の琵琶をならして、奥浄瑠璃(おくじやうるり)といふ物をかたる。平家にもあらず舞にもあらず、鄙(ひな)びたる調子うちあげて、枕近うかしましけれど、さすがに辺土の遺風(ゐふう)忘れざるものから、殊勝(しゆしよう)に覚えらる。
<塩竈>
  早朝塩竈(しほがま)の明神に詣づ。国守再興せられて、宮柱ふとしく、彩椽(さいてん)きらびやかに、石の階(きざはし)九仭(きうじん)に重なり、朝日あけの玉垣(たまがき)をかがやかす。かゝる道のはて、塵土(ぢんど)の境(さかひ)まで、神霊あらたにましますこそ、吾が国の風俗なれと、いと貴けれ。神前に古き宝燈(はうとう)有り。かねの戸びらの面に、「 文治三年和泉三郎寄進」とあり。五百年来の俤、今目の前に浮びてそゞろに珍し。渠(かれ)は勇義忠孝の士也。佳命(かめい)今に至りて、したはずといふ事なし。誠に「 人能く道を勤め、義を守るべし、名もまた是にしたがふ」といへり。日既に午に近し。舟をかりて松島に渡る。其の間二里余、雄嶋(をじま)の磯につく。
<松島>
 抑(そもそ)も事ふりにたれど、松島は扶桑第一の好風(かうふう)にして、凡(およそ)そ洞庭(どうてい)西湖(せいこ)を恥ぢず。東南より海を入れて、江の中三里、浙江(せつかう)の潮(うしほ)をたゝふ。島々の数を尽して、欹(そばだ)つものは天を指し、伏すものは波に匍匐(はらば)ふ。あるは二重にかさなり、三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。負へるあり抱けるあり、児孫(じそん)愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉(しよう)汐風に吹きたわめて、屈曲おのづからためたるが如し。其の気色よう然として、美人の顔を粧(よそほ)ふ。ちはやぶる神のむかし、大山ずみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆を揮(ふる)ひ詞を尽さん。
 雄島が磯は地つゞきて、海に出でたる島也。雲居(うんこ)禅師の別室の跡、坐禅石(ざぜんせき)など有り。はた、松の木陰に世を厭ふ人も稀/\見え侍りて、落穗・松笠など打けぶりたる草の庵閑に住みなし、いかなる人とは知られずながら、先づ懐かしく立寄るほどに、月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。江上に帰りて宿を求むれば、窓をひらき二階をつくりて、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙(たへ)なる心地はせらるれ。
 松島や鶴に身をかれ時鳥(ほとゝぎす) 曾良

 予は口を閉ぢて、眠らんとしていねられず。旧庵をわかるゝ時、素堂、松島の詩有り。原安適、松が浦島の和歌を贈らる。袋を解いて、こよひの友とす。かつ、杉風・濁子が発句あり。
 十一日、瑞岩寺(ずゐがんじ)に詣づ。当寺三十二世の昔、真壁の平四郎出家して入唐、帰朝の後開山す。其の後に雲居禅師の徳化(とくげ)によりて、七堂甍(いらか)改りて、金壁荘厳(きんぺきさうごん)光を輝かし、仏土成就の大伽藍とはなれりける。彼の見仏聖(けんぶつひじり)の寺はいづくにやと慕はる。
<石巻>
 十二日、平和泉と心ざし、あねはの松・緒だえの橋など聞き伝へて、人跡まれに、雉兎蒭蕘(ちとすうぜう)の行きかふ道そこともわかず、終に道ふみたがへて、石の巻といふ湊に出づ。「 こがね花さく」とよみて奉りたる金花山、海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地を争ひて、竃(かまど)の煙立ちつゞけたり。思ひかけず斯る所にも来れる哉と、宿からんとすれど、更に宿かす人なし。漸(ようよう)まどしき小家に一夜をあかして、明くれば又知らぬ道まよひ行く。袖の渡り・尾ぶちの牧・真野(まの)の萱(かや)原などよそ目に見て、遥なる堤を行く。心細き長沼にそうて、戸伊摩(といま)といふ処に一宿し、て平泉に至る。その間二十余里ほどとおぼゆ。
<平泉>
 三代の栄耀(えいえう)一睡の中にして、大門のあとは一里こなたに有り。秀衡が跡(あと)は田野に成りて、金鷄山のみ形を残す。先づ高館(たかだち)にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入る。康衡(やすひら)等が旧跡は、衣(ころも)が関を隔てて、南部口をさし堅め、夷(えぞ)をふせぐと見えたり。偖(さて)も義臣すぐつて此の城にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。「 国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠うち敷きて、時のうつるまで泪(なみだ)を落し侍りぬ。
 夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡
 
 卯の花に兼房(かねふさ)みゆる白毛哉 曾良
 
 かねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺(くわん)を納め、三尊の仏を安置す。七宝散りうせて、珠の扉(とぼそ)風に破れ、金(こがね)の柱霜雪(さうせつ)に朽(く)ちて、既に頽廃空虚(たいはいくうきよ)の叢(くさむら)となるべきを、四面新に囲みて、甍を覆ひて風雨を凌ぐ。暫時(しばらく)千歳の記念とはなれり。
 五月雨の降りのこしてや光堂

<尿前の関>

 南部道遥かに見やりて、岩手の里に泊る。小黒崎・みづの小島を過ぎて、鳴子(なるご)の湯より尿前(しとまへ)の関にかゝりて、出羽の国に越えんとす。
此の道旅人まれなる処なれば、関守(せきもり)にあやしめられて、漸(やうやう)として関を越す。大山をのぼつて日既に暮れければ、封人(ほうじん)の家を見かけて舎(やどり)を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。
 蚤虱(のみしらみ)馬の尿(しと)する枕もと
 主の云ふ、是より出羽国に、大山を隔てて、道さだかならざれば、道しるべの人を頼みて越ゆべきよしを申す。さらばと云ひて人を頼み侍れば、究竟(くつきやう)の若者、反脇指(そりわきざし)をよこたへ、樫の杖を携へて我々が先に立ちて行く。
けふこそ必ず危き目(め)にもあふべき日なれと、辛き思ひをなして後について行く。主のいふにたがはず、高山森々(しんしん)として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて夜行くがごとし。雲端に土ふる心地して、篠(しの)の中踏み分け/\、水をわたり岩に蹶(つまづ)いて、肌(はだ)につめたき汗を流して、最上の庄に出づ。かの案内せしをのこの云ふやう、「 此の道必ず不用の事あり。恙(つゝが)なう送りまゐらせて仕合したり」と、悦びて別れぬ。あとに聞きてさへ胸とゞろくのみなり。
<尾花沢>
 尾花沢にて清風と云ふ者を尋ぬ。かれは富める者なれども志いやしからず。都にも折々(をりをり)かよひて、さすがに旅の情をも知りたれば、日比(ひごろ)とゞめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。
 凉しさを我が宿にしてねまる也
 這出(はひい)でよかひ屋が下のひきの声
 眉(まゆ)掃(はき)を俤にして紅粉(べに)の花
 蚕飼(こがひ)する人は古代のすがた哉
   曾良

<立石寺>

 山形領に立石(りふしゃく)寺といふ山寺あり。慈覚大師の開基にて、殊(こと)に清閑の地なり。一見すべきよし、人々の勧むるに依りて、尾花沢よりとつてかへし、其の間七里ばかり也。日いまだ暮れず、麓の坊に宿かり置きて、山上の堂に登る。岩に巌(いは)を重ねて山とし、松柏(しようはく)年旧(としふり)、土石老(お)いて苔滑かに、岩上の院々扉を閉ぢて、物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這ひて、仏閣を拝し、佳景寂寞(かけいじゃくばく)として心すみ行くのみおぼゆ。
 閑かさや岩にしみ入る蝉の声

<最上川>

 最上川乗らんと、大石田と云ふ所に日和を待つ。こゝに古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花の昔をしたひ、蘆角(ろかく)一声の心をやはらげ、此の道にさぐりあしして、新古ふた道にふみ迷ふといへども、道しるべする人しなければと、わりなき一巻のこしぬ。此のたびの風流こゝに至れり。
 最上川はみちのくより出でて、山形を水上とす。碁点(ごてん)・隼(はやぶさ)などいふおそろしき難所有り。板敷山の北を流れて、果ては酒田の海に入る。左右山覆(おほ)ひ、茂みの中に船を下(くだ)す。これに稲つみたるをや、いな舟といふならし。白糸の滝は青葉のひま/\に落ちて、仙人堂、岸に臨みて立つ。水みなぎつて舟あやふし。
 五月雨をあつめて早し最上川

<羽黒>

 六月三日、羽黒山にのぼる。図司左吉(づしさきち)といふ者を尋ねて、別当代会覚阿闍梨(ゑかくあじやり)に謁(えつ)す。南谷の別院に舎(やど)して、憐愍(れんみん)の情こまやかにあるじせらる。
 四日、本坊において俳諧興行。
 ありがたや雪をかをらす南谷
 
  五日、権現に詣づ。当山開闢(かいびやく)能除大師は、いづれの代の人といふ事を知らず。延喜式に「 羽州里山の神社」と有り。書写、「 黒」の字を「 里山」となせるにや。羽州黒山を中略して羽黒山といふにや。出羽といへるは、「 鳥の毛羽を此の国の貢(みつぎ)に献(たてまつ)る」と風土記に侍るとやらん。月山、湯殿を合せて三山とす。当寺武江東叡に属して、天台止観(てんだいしくわん)の月明かに、円頓融通(ゑんとんゆうづう)の法(のり)の灯かゝげそひて、僧坊棟(むね)をならべ、修験行法を励まし、霊山霊地の験効(けんかう)、人貴(たつと)び且つ恐る。繁栄長(とこしな)へにして、めでたき御山(おやま)と謂(いつ)つべし。
 八日、月山にのぼる。木綿(ゆふ)しめ身に引きかけ、宝冠(はうくわん)に頭を包み、強力(がうりき)といふものに導(みちび)かれて、雲霧山気(うんむさんき)の中に、氷雪(ひようせつ)を踏んで登る事八里、更に日月行道の雲関に入るかとあやしまれ、息絶え身こゞえて頂上に臻(いた)れば、日没して月顕(あら)はる。笹を敷き、篠を枕として、臥して明くるを待つ。日出でて雲消ゆれば、湯殿に下る。
 谷の傍(かたはら)に鍛冶小屋といふ有り。此の国の鍛冶(かぢ)、霊水を選びて、こゝに潔斎(けつさい)して剣を打ち、終に「 月山」と銘を切つて世に賞せらる。彼の龍泉に剣を淬(にら)ぐとかや。干将(かんしやう)・莫耶(ばくや)のむかしをしたふ、道に堪能の執(しふ)あさからぬ事しられたり。岩に腰かけてしばし休らふほど、三尺ばかりなる桜の蕾(つぼみ)半ば開けるあり。ふり積む雪の下に埋れて、春をわすれぬ遅桜の花の心わりなし。炎天の梅花こゝに薫るがごとし。行尊僧正の歌の哀れもこゝに思ひ出でて、猶まさりて覚ゆ。すべて、此の山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍(よ)つて筆をとゞめて記さず。坊に帰れば、阿闍梨(あじやり)の需(もとめ)に依つて、三山順礼の句々短冊(たんざく)に書く。
 凉しさやほの三日月の羽黒山
 雲の峰幾つ崩れて月の山
 語られぬ湯殿にぬらす袂(たもと)かな
 湯殿山(ゆどのやま)銭ふむ道の泪かな
   曾良

<酒田>

 羽黒を立つて、鶴が岡の城下、長山氏重行といふ武士(ものゝふ)の家にむかへられて、俳諧一巻有り。左吉も共に送りぬ。川舟に乗りて、酒田の湊に下る。淵庵不玉(えんあんふぎよく)といふ医師の許(もと)を宿とす。
 あつみ山や吹浦(ふくうら)かけて夕すゞみ
 暑き日を海に入れたり最上川


<象潟>

 江山水陸(かうざんすゐりく)の風光数を尽して、今象潟に方寸を責。酒田の湊より東北の方、山を越え、磯を伝ひ、いさごを踏みて其の際十里、日影やゝ傾(かたぶ)く比、汐風真砂を吹き上げ、雨朦朧(もうろう)として鳥海の山かくる。闇中(あんちう)に莫作(もさく)して、雨も又奇なりとせば雨後の晴色(せいしよく)又たのもしと、蜑(あま)の笘屋(とまや)に膝を入れて、雨の晴るゝを待つ。其の朝、天よく霽(は)れて朝日はなやかにさし出づるほどに、象潟に舟を浮ぶ。先づ能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「 花の上こぐ」とよまれし桜の老木(おいき)、西行法師の記念(かたみ)を残す。江上に御陵(みさゝぎ)あり、神功(じんぐう)后宮の御墓といふ。寺を干満珠寺(かんまんじゆじ)といふ。此処に行幸(ぎょうこう)ありし事いまだ聞かず。いかなる事にや。此の寺の方丈に坐して簾(すだれ)を捲けば、風景一眼の中に尽きて、南に鳥海天をさゝへ、其の影うつりて江(え)にあり。西はむやむやの関、路をかぎり、東に堤を築きて、秋田にかよふ道遥かに、海北に構へて浪うち入るゝ所を汐ごしといふ。江の縱横一里ばかり、俤(おもかげ)松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如く、象潟は怨むがごとし。寂しさに悲しみをくわへて、地勢魂をなやますに似たり。
 象潟や雨に西施がねぶの花
 汐越や鶴はぎぬれて海涼し

  祭礼
 象がたや料理何くふ神まつり   曾良
 蜑(あま)の家や戸板を敷きて夕すゞみ 美濃の国の商人 低耳
  岩上に雎鳩(みさご)の巣(す)を見る
 浪(なみ)こえぬ契(ちぎり)ありてやみさごの巣 曾良

<越後路>

 酒田の余波(なごり)日を重ねて、北陸道の雲に望む。遥々(はる/゛\)のおもひ胸(むね)をいたましめて、加賀の府まで百十里と聞く。鼠(ねず)の関をこゆれば、越後の地に歩行を改めて、越中の国市振の関に到る。此の間九日、暑湿(しよしつ)の労に神をなやまし、病おこりて事をしるさず。
 文月や六日も常の夜には似ず
 荒海や佐渡に横たふ天の河


<市(一)振>

  今日は親知らず・子知らず・犬もどり・駒返しなどいふ北国一の難所をこえて、疲れ侍れば、枕(まくら)引きよせて寝たるに、一間隔てて面の方に、若き女の声二人ばかりと聞ゆ。年老いたるをのこの声も交りて物語するを聞けば、越後の国新潟といふ所の遊女なりし。
伊勢参宮するとて、此の関までをのこの送りて、あすは故郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝(ことづて)などしやる也。白波(しらなみ)のよする汀(なぎさ)に身をはふらかし、蜑(あま)のこの世をあさましう下りて、定めなき契、日々の業因、いかにつたなしと、物いふを聞く/\寝入りて、あした旅立つに、我々にむかひて、「 行方知らぬ旅路(たびぢ)のうさ、あまり覚束なうかなしく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍らん。衣のうへの御情(みなさけ)に、大慈(だいじ)のめぐみをたれて結縁せさせ給へ」と、泪を落す。不便の事には侍れども、「 我々は所々にてとゞまる方多し。只人の行くに任せて行くべし、神明の加護、必ず恙(つゝが)なかるべし」と、云捨てて出でつゝ、哀れさしばらくやままざりけらし。
 一家に遊女もねたり萩と月

曾良にかたれば、書きとゞめ侍る。
<那古の浦>
 黒部四十八か瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古といふ浦に出づ。担籠(たこ)の藤浪は、春ならずとも、初秋の哀れとふべきものをと、人に尋ぬれば、「 これより五里、磯づたひして、むかふの山陰に入り、蜑(あま)の苫(とま)ぶきかすかなれば、蘆(あし)の一夜の宿かすものあるまじ」と云ひおどされて、加賀の国に入る。
 わせの香や分け入る右は有磯海(ありそうみ)

<金沢>

 卯の花山・くりからが谷を越えて、金沢は七月中の五日也。爰(こゝ)に大阪よりかよふ商人何処(かしょ)といふ者あり、それが旅宿(りよしゆく)をともにす。一笑といふものは、此の道にすける名のほのぼの聞えて、世に知る人も侍りしに、去年(こぞ)の冬、早世(さうせい)したりとて、其の兄追善(つゐぜん)をもよほすに、
 塚も動け我が泣く声は秋の風
  ある草庵にいざなはれて
 秋凉し手毎(てごと)にむけや瓜茄子(うりなすび)
  途中吟
 あか/\と日は難面(つれなく)も秋の風
<小松>
  小松といふ所にて
 しをらしき名や小松吹く萩すすき

此の所、太田の神社に詣づ。実盛が甲(かぶと)・錦の切(きれ)あり。住昔(そのかみ)、源氏に属せし時、義朝公より賜はらせ給ふとかや。げにも平士(ひらさぶらひ)の物にあらず。目庇(まびさし)より吹返(ふきかへ)しまで、菊唐草(からくさ)の彫りもの金(こがね)をちりばめ、竜頭(たつがしら)に鍬形(くはがた)打(う)ちたり。実盛討死の後、木曾義仲願状(ぐわんじやう)にそへて、此の社にこめられ侍るよし、樋口(ひぐち)の次郎が使せし事ども、まのあたり縁紀に見えたり。
 むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす

<那谷>

 山中の温泉(いでゆ)に行くほど、白根が嶽(たけ)あとに見なして歩む。左の山際に観音堂あり。花山の法皇三十三所の順礼とげさせ給ひて後、大慈大悲の像を安置し給ひて、那谷(なた)と名付け給ふと也。那智・谷組の二字を分ち侍りしとぞ。奇石さまざまに、古松植ゑならべて、萱(かや)ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也。
 石山の石より白し秋の風
<山中>
 温泉(いでゆ)に浴す。其の功有明に次ぐと云ふ。
 山中や菊はたをらぬ湯の匂
 
  あるじとするものは、久米之助(くめのすけ)とて、いまだ小童也。彼が父俳諧を好み、洛(らく)の貞室、若輩のむかし、こゝに来りし比、風雅に辱(はづか)しめられて、洛に帰りて貞徳の門人となつて世に知らる。功名の後、此の一村判詞(はんし)の料(れう)を請(う)けずといふ。今更(いまさら)昔がたりとはなりぬ。
 曾良は腹を病みて、伊勢の国長島といふ所にゆかりあれば、先立ちて行くに、
 行きゆきてたふれ伏すとも萩の原  曾良

と書き置きたり。行く者の悲しみ、残る者のうらみ、隻鳧(せきふ)の別れて雲に迷ふがごとし。予も又
 今日よりや書付消さん笠の露

<全昌寺・夕越の松>

 大聖持の城外、全昌寺(ぜんしやうじ)といふ寺に泊る。猶(なほ)加賀の地なり。曾良も前の夜、この寺に泊りて、
 終宵(よもすがら)秋風きくやうらの山

と残す。一夜のへだて千里に同じ。
吾も秋風を聞きつゝ衆寮(しうれう)に臥せば、明ぼのの空近う読経(どきやう)声すむまゝに、鐘板(しようばん)鳴つて食堂(じきだう)に入る。けふは越前の国へと、心早卒(さうそつ)にして堂下に下るを、若き僧ども紙・硯をかゝへ、階(きざはし)のもとまで追ひ来る。折ふし庭中の柳散れば、
 庭掃きて出づるや寺に散る柳

取りあへぬさまして、草鞋ながら書き捨つ。
  越前の境、吉崎の入江を舟に棹(さをさ)して、汐越の松を尋ぬ。
 終宵(よもすがら)嵐に波をはこばせて
 月をたれたる汐越の松 西行
此の一首にて数景尽きたり。若し一辨(べん)を加ふるものは、無用の指を立つるがごとし。
<天竜寺・永平寺>
 丸岡天龍寺の長老、古き因みあれば訪ぬ。又、金沢の北枝といふ者、かりそめに見送りて此処まで慕ひ来る。所々の風景過さず思ひつゞけて、折節あはれなる作意など聞ゆ。今既に別(わかれ)にのぞみて、
 物書て扇引きさく余波(なごり)哉
 
 五十丁山(やま)に入つて、永平寺を礼す。道元禅師の御寺なり。邦機(はうき)千里を避(さ)けて、かゝる山陰に跡をのこし給ふも、貴きゆえ有りとかや。
<等栽>
 福井は三里ばかりなれば、夕飯(ゆふげ)したゝめて出づるに、たそがれの路たどだどし。爰(こゝ)に等栽(とうさい)といふ古き隠士(いんし)あり。いづれの年にか、江戸に来りて予を尋ぬ。遥(はる)か十とせ余り也。いかに老いさらぼひてあるにや、将(はた)死にけるにやと人に尋ね侍れば、いまだ存命して、そこそこと教ふ。
市中ひそかに引入りて、あやしの小家(こいえ)に夕顔・へちまの這ひかゝりて、鶏頭・箒木(はゝきゞ)に戸ぼそをかくす。さては、此の内にこそと門を叩けば、侘(わび)しげなる女の出でて、「 いづくよりわたり給ふ道心の御坊にや。あるじは此のあたり何がしと云ふものの方に行きぬ。もし用あらば尋ね給へ」といふ。かれが妻なるべしと知らる。昔物語にこそかゝる風情は侍れと、やがて尋ね逢ひて、その家に二夜泊りて、名月は敦賀の湊にと旅立つ。等栽も共に送らんと、裾(すそ)をかしうからげて、路の枝折(しおり)とうかれ立つ。
<敦賀>
  漸(やうや)く白根が嶽(だけ)かくれて、比那(ひな)が嵩(たけ)顕はる。あさむづの橋を渡りて、玉江の蘆(あし)は穂に出でにけり。鴬の関を過ぎて、湯尾(ゆのを)峠を越れば、燧(ひうち)が城(じやう)、かへるやまに初雁を聞きて、十四日の夕暮、敦賀の津に宿をもとむ。
 その夜月殊に晴れたり。「 明日の夜もかくあるべきにや」といへば、「 越路のならひ,猶(なほ)明夜の陰晴(いんせい)はかりがたし」と、あるじに酒すゝめられて、気比(けい)の明神に夜参す。仲哀天皇の御廟也。社頭(しやとう)神さびて、松の木の間に月のもり入りたる、おまへの白砂霜(しも)を敷けるが如し。往昔(そのかみ)遊行二世の上人、大願發起(だいぐわんほつき)の事ありて、みづから草を刈り、土石を荷ひ、泥ていをかわかせて、参詣往来(さんけいわうらい)の煩なし。古例今に絶えず。神前に真砂を荷ひ給ふ。「 これを遊行の砂持と申し侍る」と、亭主の語りける。
  月清し遊行のもてる砂の上
 
  十五日、亭主の詞にたがはず雨降る。
  名月や北国日和(ほくこくびより)定なき

<種の浜>
 十六日、空霽(は)れたれば、ますほの小貝ひろはんと、種(いろ)の浜に舟を走す。海上七里あり。天屋何某といふもの、破籠(わりご)・小竹筒(さゝえ)などこまやかにしたゝめさせ、僕(しもべ)あまた舟にとり乗せて、追風時(とき)のまに吹きつけぬ。浜はわづかなる海士(あま)の小家にて、侘しき法花寺あり。こゝに茶を飲み酒をあたゝめて、夕暮の淋しさ感に堪へたり。
  寂しさや須磨にかちたる浜の秋
  波の間や小貝にまじる萩の塵


<大垣>

 露通も此の湊まで出むかひて、美濃の国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入れば、曾良も伊勢より来り合ひ、越人も馬をとばせて、如行が家に入り集まる。前川子(ぜんせんし)、荊口(けいこう)父子、其の外親しき人々日夜とぶらひて、蘇生(そせい)のものにあふがごとく、且つ悦び、かついたはる。旅の物うさもいまだ止まざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮拝まんと又舟にのりて、
 蛤のふた見にわかれ行く秋ぞ