芭蕉の略年譜と私の好きな芭蕉の句(緑色)   芭蕉メニューへ  

1644年
1歳 寛永二十一年
(正保元年)

伊賀上野赤坂(三重県上野市)で松尾与左衛門の次男として生まれる。
当時は「農人町」という町名だった。父松尾与左衛門は伊賀土豪の末裔の郷士、苗字帯刀を許されていたが無給の「無足人」(むそくにん)という家系。
幼名は金作、後に藤七郎、甚七郎、忠右衛門と称した。名は宗房(むねふさ)。
上に兄半左衛門と姉が一人、下に妹が3人いた。

1637年(寛永14)島原の乱、五人組の規定
1649年(慶安2)慶安の御触書
1651年(慶安4)由比小雪の慶安事件
1657年(明暦3)大火で江戸城本丸・二の丸をはじめ江戸の半ばが焼ける
徳川光圀が『大日本史』の編纂を始める
1660年(万治3)仙台藩伊達騒動

1662年
19歳 寛文二年

藤堂新七郎家(侍大将5千石)の良精(よしきよ)の息子良忠(よしただ)(俳号蝉吟(せんぎん))に仕える。なぜ郷士の子が採用されたかは不明。役職は「台所用人」=料理人だが、採用当初は良忠の近習、俳諧仲間だったようだ。「台所用人」という役職は、良忠死去後の役職で、生前は近習といったところか。
芭蕉は、忠右衛門宗房と名のる。芭蕉は良忠に仕えたことから、四書五経や漢詩など当時としては高度な武将としての教育をともに受けたのではないかといわれているが、詳細は不明。

1666年
23歳 寛文六年 主君の良忠が死去、25歳。芭蕉は、奉公を続けたのか、また職を解かれたのか、自ら辞退したのか、不明。いずれにしても仕官かなわず。
良忠
は、京都を代表する俳人で後に将軍綱吉の歌学の師となった北村季吟の門人だった。芭蕉もその縁で季吟に接することもあったのだろうといわれている。
年は人にとらせていつも若夷(わかえびす)
夕顔に見とるるや身もうかりひょん
1672年
29歳 寛文十二年 芭蕉編集の「貝おほひ」を伊賀上野菅原神社に奉納、出板。「伊賀上野松尾氏宗房釣月軒にして自ら序す」と署す。
春、江戸に出たかもしれない。
日本橋小田原町に居住。大舟町の名主をしていた小沢太郎兵衛家で「書き役」として帳簿つけや文書作成などの仕事を勤めたようだ。だが、仕事の帳面つけの書き役なのか、連句の書き役なのか。
1673年(延宝1)三井高利が江戸と京都に越後屋呉服店を開く。
1674年
31歳 延宝二年 この頃、妾(内縁の妻)の寿貞(じゅてい)と同居か。其角入門。其角は14歳頃の入門で最も古い門人。
1675年
32歳 延宝三年 この春、芭蕉は江戸に出たことは確かなようだ。甚七郎と改名。
俳号を「宗房(むねふさ)」から「桃青(といせい)」に改める。尊敬していた李白にちなんで、白い李(すもも)に対する青い桃という意図とか。芭蕉は、後に芭蕉に改名してからも「松尾桃青」や「芭蕉(庵)桃青」として、桃青という名を併用している。よほど気に入っていたようだ。
嵐雪・杉風らが入門。
1676年
33歳 延宝四年 6月、伊賀上野に戻り、甥の桃印(とういん)をつれて江戸に戻る。
1677年
34歳 延宝五年 以後4年間、神田上水(小石川上水)の改修工事(総払い)の監督ないし請負の仕事に従事。点者俳諧師としての生活は楽ではなかったのか、それとも「書き役」としての仕事の延長か。生活のための二束の草鞋か。いずれにしても、芭蕉は起業と運営の能力を発揮した。この頃、関口芭蕉庵(文京区関口)にも住んでいたとか。
あら何ともなきやきのふは過ぎてふくと汁
1678年
35歳 延宝六年

俳諧の宗匠として立机。立机披露の万句興行を催す。桃青一門の確立を目指す。
「書き役」という仕事と俳諧の宗匠、内縁の寿貞。芭蕉の好調な日本橋での生活。

1679年
36歳 延宝七年 桃青、我が世の春を謳歌か。
発句也松尾桃青宿の春
 (貞亨年間かもしれない)
1680年
37歳 延宝八年 四代将軍徳川家綱死去。綱吉が第5代将軍に就任。
家綱時代の放漫な財政政策と自由な町人文化は、綱吉の時代になって財政緊縮、庶民には奢侈を禁じ倹約を強制する厳令を発するようになり、大きな打撃をうけることになる。

談林俳諧の崩壊。町人たちに俳諧に遊ぶ経済的・精神的な余裕がなくなってきたことが背景にあった。

杉風・卜尺・嵐蘭・楊水・嵐雪・其角らの門人を擁し、俳壇的地位を確立。
10月、新小田原町より出火、近隣10余町が類焼。
芭蕉の身に何が起こったのか。人生の大きな転機を迎える。 この冬、日本橋小田原町より深川村の草庵に移転する。深川隠棲。庵を杜甫にちなんで「泊船堂」とする。
この年、畿内・関東で大飢饉。
「しばの戸に」句文。
かれ朶(えだ)に鳥のとまりけり(たるや)秋の暮
雪の朝独り干鮭(からざけ)を噛み得たり
1681年
38歳 延宝九年
(天和元年)
門人李下から芭蕉の株を贈られ、草庵の庭に植える。
深川臨川庵で仏頂和尚に就き禅について学んだか。あるいは交遊か。
仏頂和尚の教えによるものか、荘子・杜甫の影響。
庵を「芭蕉庵」に変える。
漢文・漢詩調へ。
侘びてすめ」の詞書、「芭蕉野分して」の詞書、「乞食の翁」句文、寒夜の辞、笠やどり

「月をわび身をわび拙(つたな)きをわびて、わぶと答へむとすれど問ふ人もなし。なほわびわびて、詫びてすめ月詫斎がなら茶歌
芭蕉野分して盥(たらい)に雨を聞夜哉
櫓(ろ)の声波をうって腸(はらわた)氷る夜やなみだ
1682年
39歳 天和二年

6月、仏頂和尚は、土地をめぐる鹿島神宮との争いに勝訴したが、住職をしていた根本寺を弟子に譲り、行脚の旅に出たようだ。芭蕉の胸に、仏頂和尚の行脚修行の旅の生き方が肝銘として残ったのではないか。
「芭蕉」の俳号を初めて使用する。
以降も「ばせを」や「芭蕉(庵)桃青」、「風羅坊芭蕉」、「泊船堂芭蕉」などの名を使っている。
12月、江戸駒込大円寺を火元とする江戸大火(八百屋お七の「お七火事」)により芭蕉庵消失。火宅・無常・無所住の心。
人を頼って甲斐へ。
笠はり 1」(「世にふるも」句文)
花にうき世我酒白く食(めし)黒し
氷苦く偃鼠(えんそ)が喉(のど)をうるほせり
あさがほに我は食くふおとこ哉
世にふるもさらに宗祇(そうぎ)のやどり哉

1683年
40歳 天和三年 甲斐より江戸に戻る。門人・友人知己の喜捨により新築された芭蕉庵に移る (第二次芭蕉庵)。6月、伊賀の母死去。
「みなしぐり」、其角が編者。漢詩文調の俳諧撰集。
くわのみや花なき蝶の世すて酒
あられきくやこの身はもとのふる柏
1684年
41歳 天和四年
(貞亨元年)

8月、門人千里を伴って「野ざらし紀行」の旅に出る。帰郷して母の供養。
東海道を経て伊勢神宮外宮参詣。大垣・桑名・熱田・名古屋に滞在。

名古屋で歌仙「冬の日」を巻く。連衆は、芭蕉・野水・荷兮・重五・杜国・小池正平。蕉風の確立。
馬に寝て」の詞書、「狂句こがらしの」の詞書
野ざらしを心に風のしむ身かな
霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き
道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれけり
馬に寝て残夢月遠し(残夢残月)茶のけぶり
手にとらば消えん涙ぞあつき秋の霜
露とくとく心みに浮世すすがばや

秋風や藪(やぶ)も畠も不破の関
しにもせぬ旅寝のはてよ秋の暮
明けぼのやしら魚白きこと一寸
狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉 (歌仙「冬の日」の発句)
海くれて鴨のこゑほのかに白し
年くれぬ笠きて草鞋はきながら
たび寝して我句をしれや秋の風

1685年
42歳 貞亨二年 伊賀を出て奈良興福寺の薪能、二月堂お水取り見物。京都鳴瀧の三井秋風の別荘に半月滞在。その後、伏見を経由して大津へ。「野ざらし紀行」旅を終えて木曽路を経て江戸に帰る。
めでたき人の」の詞書
将軍綱吉、最初の生類憐みの令
杜若(かきつばた)われに発句のおもひあり
春なれや名もなき山の薄霞
山路来てなにやらゆかしすみれ草
辛崎の松は花より朧にて
いざともに穂麦喰はん草枕
夏ごろもいまだ虱(しらみ)をとりつくさず
めでたき人の数にも入らん老いのくれ
1686年
43歳 貞亨三年

井原西鶴『好色五人女』
芭蕉庵で蛙の句の句合「蛙合」。
古池や蛙飛こむ水のをと」ができる。
雪丸げ」の詞書
東にしあはれさひとつ秋の風
名月や池をるぐりて夜もすがら
君火をたけよきもの見せむ雪まるげ
酒のめばいとど寝られぬ夜の雪
月雪とのさばりけらしとしの昏

1687年
44歳 貞亨四年 曽良・宗波を伴い鹿島神宮に向け江戸を発つ、「鹿島詣」 。
「あつめ句」成る。
笈の小文」の旅に出発。蟄居中の杜国を越人とともに伊良子崎に訪ねる。
伊賀上野に帰り、越年。
箱根越す人のあるらし今朝の雪
よくみれば薺(なずな)花さく垣ねかな
花の雲鐘は上野か浅草か
月はやし梢は雨を持ちながら
寺に寝てまこと顔なる月見哉
五月雨ににおの浮巣を見に行む
蓑虫の音を聞きに来よ草の庵
酔うて寝んなでしこ咲ける石の上
旅人と我が名よばれん初時雨
星崎の闇を見よとや啼千鳥
冬の日や馬上に氷る影法師
鷹一つ見付けてうれし伊良湖崎
旅寝して見しや浮世の煤払い
いざさらば雪見にころぶ所迄
いざ出でん雪見にころぶ所まで
1688年
45歳 貞亨五年
(元禄元年)

柳沢吉保が側用人に。
井原西鶴『日本永代蔵』

2月、杜国と落合い伊勢神宮参拝。吉野、高野山、和歌の浦、奈良、大阪、須磨、明石、京都、ここで杜国と別れる。その後、京都、岐阜、鳴海・名古屋遊ぶ。
8月、越人と信濃路「更科紀行」の旅、姥捨てに向かう。
芭蕉庵で「深川八貧」の句会。

夏はあれど」の詞書、「蛸壺や」の詞書、「おもかげや」句文、更級姥捨月之弁
二日にもぬかりはせじな花の春
何の木の花とはしらず匂哉
はだかにはまだ衣更着(きさらぎ)の嵐かな
此山のかなしさ告げよ野老堀(ところぼり)
さまざまのこと思い出す桜かな
花の陰謡(うたひ)に似たる旅ねかな
若葉して御目の雫ぬぐわばや
ほろほろと山吹ちるか瀧の音
さびしさや華のあたりのあすなろう
日は花に暮れてさびしやあすなろう
父母のしきりに恋し雉(きじ)の声
行春にわかの浦にて追付たり

草臥(くたび)れて宿かる比や藤の花
月はあれど留主のよう也須磨の夏
蛸壺やはかなき夢を夏の月
面白うてやがて哀しき鵜舟(鵜飼い)哉
たびにあきてけふ幾日やら秋の風
粟稗(あわひえ)にまづしくもなし草の庵
かけはしやいのちをからむ蔦かづら
おくられつおくりつはては木曽の秋
俤(おもかげ)や姥ひとり泣月の友
いさよひもまだ更科の郡哉
身にしみて大根からし秋の風
吹き飛ばす石はあさまの野分哉
冬籠りまたよりそはん此のはしら

1689年
46歳 元禄二年 曾良を伴って「おくのほそ道」の旅に出る。「おくのほそ道」3月〜9月。
伊勢、伊賀上野、奈良、京都をへて大津の膳所へ。膳所で越年。
草の戸も」の詞書(雛の家) 明智が妻(「月さびよ」の句文) 「銀河の序」 「初しぐれ」の詞書

草の戸も住替る世ぞひなの家
あらたうと青葉若葉の日の光
山も庭もうごき入るるや夏座敷
木啄も庵はやぶらず夏木立
野を横に馬牽きむけよほととぎす
田一枚植えて立ち去る柳かな
風流の初めやおくの田植うた
笠島はいずこ五月のぬかりみち
あやめ草足にむすばん草鞋の緒
夏草や兵共がゆめの跡
五月雨の降りのこしてや光堂
蚤しらみ馬の尿する枕元
閑さや岩にしみ入る蝉の声
涼しさやほの三日月の羽黒山
雲の峰幾つ崩れて月の山
語られぬ湯殿に濡らす袂哉
象潟や雨に西施がねぶの花
暑き日を海に入れたり最上川
五月雨を集めて涼し最上川
あつみ山吹浦かけて夕涼み
荒海や佐渡によこたふ天河
一家に遊女も寝たり萩と月
早稲の香や分け入る右は有そ海
むざんやな甲の下のきりぎりす
石山の石より白し秋の風
塚も動け我が泣く声は秋の風
あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風
行き行きてたふれ伏すとも萩の原
蛤のふたみにわかれ行秋ぞ
憂きわれを寂しがらせよ秋の寺
初時雨猿も小蓑を欲しげ也
1690年
47歳 元禄三年

1月伊賀上野に帰郷。
3月義仲寺の無名庵に滞在。
4月〜7月まで国分山の幻住庵に暮らし「幻住庵の記」を書く。
6月京都に出て凡兆宅に滞在。幻住庵に戻る。
伊賀に帰るが、12月には大津の乙州の新宅に滞在する。
「ひさご」(珍硯(ちんせき)が編集、観念を排して具体的な描写。「かるみ」を志向。)出板。
薦(こも)を着て誰人います花のはる
木のもとに汁も鱠(なます)も桜かな

行く春を近江の人と惜しみける
先たのむ椎の木も有り夏木立
病雁の夜さむに落ちて旅寝哉

乾鮭(からさけ)も空也の痩せも寒の中(うち)

1691年
48歳 元禄四年 京都の凡兆宅から、去来の別宅、落柿舎(らくししゃ)へ。そこで「嵯峨日記」、去来・凡兆編集「猿蓑」(不易流行・さび・しおりの表現)。
京と大津・膳所の間を往復、風吟を重ねる。
膳所では、義仲寺に新築された無名庵に入る。
山里は万歳(まんざい)遅し梅の花
梅若菜まりこの宿(しゅく)のとろろ汁
不性(ぶしょう)さやかき起こされし春の雨
ほととぎす大竹藪をもる月夜
憂きわれを寂しがらせよ閑古鳥(かんこどり)
我が宿は蚊のちいさきを馳走かな
能なしの寝(ねむ)たし我をぎゃうぎゃうし
五月雨や色紙へぎたる壁の跡
葱(ねぶか) 白く洗ひたてたるさむさ哉
1692年
49歳 元禄五年 杉風らが新築した芭蕉庵に入る。(第三次芭蕉庵)
許六入門。「軽み」の作風。
栖去(せいきょ)之弁」「芭蕉を移す詞
けふばかり人も年よれ初時雨
魚鳥のこころはしらずとしの暮
蛤もいける甲斐あれとしの暮
1693年
50歳 元禄六年

桃印、芭蕉庵にて没。
許六離別の詞」(柴門の辞) 「閉関の説」を草す。
芭蕉の体調がおもわしくない。
昆若(こんにゃく)にけふは売勝(うりかつ)若菜哉

1694年
51歳 元禄七年

この年、しきりに「軽み(かるみ)」を提唱する。「炭俵」(新しい門人の野坡、利牛、孤屋が編集。「かるみ」表現。)出板。

「おくのほそ道」完成。元禄二年に「おくのほそ道」の旅に出てから5年の歳月がたっていた。完成はしたが出版されるのは、芭蕉没後8年たった元禄十五年だった。芭蕉は「おくのほそ道」を出版して世に問う気持ちがあったのかどうか。

伊賀上野に帰り、「おくのほそ道」の清書版を兄に渡す。
5月伊賀上野をへて、大津膳所へ。
6月 芭蕉の内縁の妻、寿貞が芭蕉庵で死去。寿貞の死を知らせる手紙を京都嵯峨の落柿舎で受け取る。
義仲寺の無名庵へ。
9月8日、「続猿蓑」を遂げた芭蕉は、支考や江戸から戻っていた二郎兵衛とともに、大坂(大阪)に向けて伊賀上野を旅立った。出発当日の8日は奈良に一泊し、翌日大坂に到着した。
9月10日の晩、芭蕉は悪寒・頭痛に襲われ、この日から10日間ほど同じ症状を繰り返した。
芭蕉は病を押して9月26日から28日まで3日連続して俳席に連座した。「秋深き隣は何をする人ぞ」(28日吟)を発句として芝柏亭俳諧が行われることになっていた29日の夜、下痢のために床に臥し、この日を境に次第に容態が悪化していった。

大阪の酒堂(しゅどう:珍碩)と之道(しどう)の争いの調停、失敗。

10月に入ると病状はいよいよ差し迫り、芭蕉は之道亭から花屋仁左衛門の貸座敷に移され、膳所、大津、伊勢などの門人に急が告げられた。
8日の夜更け、病中吟「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」を示すなどの気力も見せたが、翌々日の10日になって、暮方から様態が急変した。死に際を悟った芭蕉は、同日、兄半左衛門宛に自らの手で遺書を認めた後、門人たちへの遺書を支考に代筆させた。

10月11日、朝から食を断って不浄を清めていた芭蕉のもとへ、上方の旅先から其角が駆けつけた。その夜、芭蕉は永久の別れを直ぐにして門弟たちの夜伽の句を耳に残し、翌12日申の刻(午後4時ごろ)、51歳でその生涯を閉じた。
10月12日、芭蕉逝く。
同日夜、芭蕉の遺言通り義仲寺に葬るため、去来・基角・乙州・支考・丈草・惟然・正秀・木節・呑舟・二郎兵衛の十人が、遺骸とともに淀川をさかのぼった。
13日午後 柩を膳所義仲寺に運び、14日境内に埋葬。

むめががにのつと日の出る山路かな
前髪もまだ若草の匂ひかな
蕎麦はまだ花でもてなす山路かな
ひやひやと壁を踏まえて昼寝かな
数ならぬ身となおもいそ玉祭り

菊の香やならには古き仏達
秋深き隣は何をする人ぞ
此道や行人なしに秋の暮
この秋は何で年よる雲に鳥
物いへば唇寒し秋の風
旅に病んで夢は枯野をかけ廻(めぐ)る

<年齢不詳>
西行の庵もあらん花の庭
ほととぎす今は俳諧師なき世かな
白菊よ白菊よ恥長髪よ長髪よ
子に飽くと申す人には花もなし
魚の骨しはぶる迄の老を見て
奈良七重七堂伽藍八重ざくら

 年譜はおもに三省堂「芭蕉ハンドブック」、岩波文庫「芭蕉俳文集(下)」により、その他の資料を参考にした。俳句はおもに 岩波文庫「芭蕉俳句集」、角川文庫「芭蕉全句集」による。