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越後路・出雲崎・市振 |
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出雲崎 [地図]
鼠(ねず)の関を出てからは、村上に泊まり瀬波に遊び、新潟を通って弥彦の明神にも参詣している。さらに寺泊をへて出雲崎に宿泊、その夜は雨が強く降ったと「曾良旅日記」にはある。 |
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![]() 出雲崎の良寛資料館裏の高台より。 |
海が荒れていたかどうかはわからないが、強い雨のなかで佐渡を望むことも天の川を見ることもできなかったはずだ。芭蕉は出雲崎で「荒海や佐渡によこたふ天河」と詠んだ。この有名な句は写実であるよりも虚構に近いものだといわれているが、実景以上に実景らしい。佐渡の流人の島としての悲しい歴史と旅情と乾坤の銀河。出雲崎で佐渡を眺めると、この句の絵画的イメージが実感でき、見る人を無条件に納得させてしまう。 地元の人に聞くと、夏のこの時期、佐渡海峡は風も吹かず、波もほとんどない穏やかな日が多いという。ただ、佐渡が見えてもいつも水蒸気でかすんでいて、島影程度しかみえないとのこと。また、天の川は夏の時期は芭蕉が云うように、本土から島の方に橋を渡すように横たわって見えるが、ただ、残念なことに町の灯りや街灯で昔より天の川が見えにくくなっているという。 |
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![]() 「芭蕉園」という公園のなかの俳文「銀河の序」を刻んだ句碑 |
芭蕉園、 |
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![]() 芭蕉園の芭蕉銅像。 なんだか子供に髭をはやして、老けさせたような感じの像。 |
芭蕉の「あら海や佐渡に横たふあまの川」は、おそらく芭蕉の優れた句の中でも、さらに秀逸と感じる人が多いのではないか。芭蕉ごのみのわびさびの世界とは一味違う、大いなる宇宙的な「乾坤の変」(自然の変化)への現前を詠んでいる。しみじみとした味わいは少ないが、桑門乞食の草枕の切なさと醍醐味がストレートに表現されているように思う。 私のささやかな経験でも、小さなテントの寝袋から顔を出して見上げた時の天の川は、いまでも震えるような感動を与えてくれる。そしてなぜか切なくて泣きたくなるものなのだ。 芭蕉は、「銀河の序」にあるように、黄金を産する佐渡が島ではあるが、「朝敵」流人の島の歴史により多くの思いを寄せているように思う。朝敵として配流された罪人が京に思いをはせて見上げた時の満天の星と天の川、その同じ星と天の川をみて芭蕉も涙するのだった。 |
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![]() 良寛資料館裏の高台にある良寛と子供たちの像。 |
![]() 出雲崎は良寛の古里である。 良寛資料館裏の高台にある良寛と子供たちの像。 良寛資料館は芭蕉園の後ろにある高台で、歩いて5分。出雲崎の町は、すぐ後ろに崖のような高台が続き、町は崖と浜の間に細長く伸びている。 |
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![]() 良寛資料館にある良寛の住んだお堂のイメージか。 |
町のたたずまいは江戸時代の漁業と宿場の町の面影をそのまま引きずっているように見えた。良寛も芭蕉もこの町とこの海をみていたのだろう。 良寛堂 良寛堂は、良寛の生家である橘屋の屋敷跡に立っている。橘屋は、代々出雲崎で名主を務めてきた家柄で、1758年(宝暦8)この地に生まれ、光照寺に入るまでの18年間を過ごした。良寛の母の国、佐渡島を背景にして海に浮かんで見え、素朴で優美な建物。1922年(大正11)築。 |
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![]() 良寛の生家の跡に建てられた良寛堂。すっきりしていてとかっこいい。 |
出雲崎を立った芭蕉は柏崎に入った。天候は朝まで雨が降り、しばらく止んではまた降り出すといった状態だった。柏崎の庄屋の「天や弥惣米兵衛」に紹介状が届いていたが宿を求めるとあまりいい返事をしなかったようだ。芭蕉は不快に思いその家を出てしまった。後で二度ほど引き留める人がきたが、芭蕉は戻らなかった。何があったのだろうか。 芭蕉は小雨のなか鉢崎まできて宿を求めている。 また、今町(今の直江津)でも紹介状を出して宿を請うたが忌中ということでいい返事がなかったので、芭蕉はまたも不快に思い、出てしまった。その話しを聞いた主人はすぐに人を出して詫びを入れ戻ってくれるように頼んだが、芭蕉は聞き入れない。再三にわたり人が来て是非戻ってほしいと頼み込んだようだ。また、雨も降り出してきた。曾良は気が気ではなかった。雨の中、次の宿を探さなければならならないのか。 |
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![]() 芭蕉は、越後・高田で数日宿泊し、歌仙もまいている。ここで、面白い句でもものしてくれるとよかったのだが、「おくのほそ道」での越後滞在の記録がほとんどないのが、越後人としてはかなしい。後世の越後・上越の人も後味の悪い思いをしなくて済んだのだが。 |
芭蕉はここでようやく引き留めに応じたようだ。「幸ト帰ル」と曾良旅日記にはある。曾良のやれやれといった思いが伝わってくる。 結局、越後では秀句「荒海や佐渡に横たふ天の河」のみが収穫として残ることになった。 |
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![]() 親不知の海岸線。国道・高速道路・北陸本線がもつれ合って通る。 |
親不知 親不知を越え坂道を下ると、すぐ市振の街道松が見えてくる。芭蕉はここで宿泊する。 |
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市振 [地図]
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![]() 市振の宿の入り口。 松と手前の井戸が当時の宿場をしのばせる。 |
市振の宿の入り口。何もない日本海の宿場だが、芭蕉の句ひとつでその名を歴史に留めることになった。 「萩と月」というのがなんだが、わかったようでわからない。新潟の二人の遊女の名前だろうか、宿には萩の花咲き、月が出ていた夜のことだった、ということなのだろうか。 |
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![]() 蕪村の「奥の細道絵図」より、市振での若い女二人の図。新潟からお伊勢参りに出た遊女だという。 |
家並みはもちろん現代の民家だが、雰囲気は街道の宿場そのまんま。 写真は芭蕉が宿泊した桔梗屋の跡。バス亭といっしょに碑が立っているだけ。
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![]() 句碑のある長円寺の入り口 |
国道8号線を挟んで、山側に長円寺、海側に市振の家並みがある。長円寺には、「一つ家に遊女も・・・」の句碑がある。 |
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![]() 長円寺の「一家に遊女もねたり萩と月」石碑 |
「不便の事には侍れども、我々は所々にてとゞまる方多し、只人の行くに任せて行くべし、神明の加護必ず恙(つゝが)なかるべし」と云ひ捨てて分かれて出るのだが「哀れさ暫らくやまざりけらし」と憐憫の情を吐露する。 |
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![]() 「市振の関」跡 |
芭蕉は「曾良にかたれば書きとゞめ侍る」とあるが曾良旅日記にはそのような記述はなく、その他の資料にもそれにふれた記述はないようだ。 今年もまた8月15日がやってきた。日本はいまだ自分の歴史と真正面から向き合えないでいる。私の仕事の組み立ても、難しさを増し行き詰ってきている。 |
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| poto by miura 2006.8 mail:お問い合わせ 象潟へ | ||