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石巻から平泉へ


石巻近くの北上川
石巻近くの北上川。盛岡・花巻・平泉を流れて石巻のあたりで太平洋に流れ込む。芭蕉は、平泉を目指しながらも道に迷って石巻に出てしまった。「宿からんとすれど、更に宿かす人なし。」 上の写真は、石巻を出て「遥かなる堤を行。心細き長沼にそふて・・・・」と書いているところ。大河と山並みと暗雲と。このあとものすごい雨となった。

日和山公園に立つ芭蕉と曾良の像。

石巻

 石巻の中心市街地からやや海よりに日和山がある。曾良の旅日記には「日和山と云へ上る。石の巻中不レ残見ゆる」とある。二人で日和山からの石巻の眺望を楽しんだのだろう。
 芭蕉は、「人跡まれに、雉兎蒭蕘(ちとすうぜう)の行きかふ道そこともわかず、終に道ふみたがへて、石の巻といふ湊に出づ。「こがね花さく」とよみて奉りたる金花山、海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地を争ひて、竃(かまど)の煙立ちつゞけたり。思ひかけず斯る所にも来れる哉と、宿からんとすれど、更に宿かす人なし。漸(ようよう)まどしき小家に一夜をあかして、明くれば又知らぬ道まよひ行く」といっているが、もともと石巻を経由して平泉に向かう予定だった。


2011年8月、石巻を訪ねる。日和山から海岸方向を望む。3月11日の大震災・津波の爪痕が生々しく、復興には程遠かった。

 二人の像は、曾良が芭蕉を後押ししているのか、いたわっているのか、なんとも微笑ましい。だが、ここからの石巻の眺めは左の写真のとおり。街中はまだ被災の跡が生々しかった。ただただ祈るしかなかった。三度目の芭蕉追っかけの旅には、こんなこともある。

命をなくした人1万5千人、行方不明者5千人。

わたつみの海にはなつ二万の鎮魂

 

 三代の栄耀(えいえう)一睡の中にして、大門のあとは一里こなたに有り。秀衡が跡(あと)は田野に成りて、金鷄山のみ形を残す。先づ高館(たかだち)にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入る。康衡(やすひら)等が旧跡は、衣(ころも)が関を隔てて、南部口をさし堅め、夷(えぞ)をふせぐと見えたり。偖(さて)も義臣すぐつて此の城にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠うち敷きて、時のうつるまで泪(なみだ)を落し侍りぬ。

 夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡

 卯の花に兼房(かねふさ)みゆる白毛哉 曾良

光堂へのアプローチ
光堂へのアプローチ。観光客が多いのだろう、よく整備されて美しい。堂の中に金色の光堂が鎮座している。
平泉 [地図]

 かねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺(くわん)を納め、三尊の仏を安置す。七宝散りうせて、珠の扉(とぼそ)風に破れ、金(こがね)の柱霜雪(さうせつ)に朽(く)ちて、既に頽廃空虚(たいはいくうきよ)の叢(くさむら)となるべきを、四面新に囲みて、甍を覆ひて風雨を凌ぐ。暫時(しばらく)千歳の記念とはなれり。

 五月雨の降りのこしてや光堂

光堂の入り口にある「五月雨の・・・」の句碑
光堂の入り口にある「五月雨の・・・」の句碑。何が書いてあるのかまったく読み取れない。クリックで拡大する。

「五月雨の降りのこしてや光堂」句碑

 いつの時代かわからないがかなり古い句碑で文字を判読できない。木の塔がなければ通り過ぎてしまうほど影が薄い。
 藤原三代も義経も時代は遠く、もはや面影は何もない。そも藤原氏の栄華とはなにか。ただコンクリートの中で黄金に輝く光堂があるのみ。光堂の豪華さは、なぜかむなしい。

時の闇 何を忍ぶか 光堂

 芭蕉は、歴史のなかで家族滅裂して滅んでいった藤原氏があわれでならない。その滅亡の原因が義経の比護とそれを言いがかりにする鎌倉幕府であってみれば、なおさらである。


中尊寺の参道の途中にある「西行歌碑」

 中尊寺の参道の途中に「西行歌碑」がある。「聞きもせず 束稲(たばしね) 山の 桜花 吉野のほかに かかるべしとは 」の歌碑である。
 西行は二度奥州・平泉を訪ねている。この歌はいつのものかわからないが、吉野の桜をこよなく愛する西行が、その吉野の桜と比べて束稲(たばしね) 山の桜を歌にしているのだから、当時は相当の桜山だったのだろう。現在の束稲山では、昔の桜山を復興させようと植林がさかんだとか。

 西行の高館での絶唱がある。
「10月12日、平泉にまかり着きたりたるに、雪降り嵐激しく、ことの外に荒れたりけり。いつしか衣河見まほしくてまかり向かひて見けり。川の岸につきて、衣川の城しまはしたる事柄、やう変わりてものを見る心地しけり。汀凍りて取り分寂びければ取り分て 心も凍みて 冴えぞわたる 衣川見に 来る今日しも」 (山家集1131)
 最果て奥州衣川、その時、雪が吹雪いていたのだろう。雪にけぶる衣川をみた西行の心象風景は、心にしみていっそう冴えわたる。

高館より北上川を望む
高館より北上川を望む。
文治5年(1189年)4月30日、義経主従は高館にて、鎌倉の圧力に抗しきれなかった泰衡の軍により、全員殺害された。義経は妻子を殺害して自害した。義経31歳。あわれ、英雄の最後。
同時に泰衡と反目して義経についた忠衡も討たれた。泰衡は、義経の首を酒浸けにして鎌倉へ送達したが、頼朝は許可なく義経を討伐したことを口実として奥州征伐を奏上した。同年、泰衡が殺害され奥州藤原氏は滅亡した。

 

 

高館(たかだち)

 義経の住居があり最後の地とされる高館より。

先高舘にのぼれば、北上川南部より流るる大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、 高舘の下にて大河に落入。泰衡が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。さても義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。 「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷て、時のうつるまで泪を落とし侍りぬ。

夏草や兵どもが夢の跡

卯の花に兼房みゆる白毛かな 曾良
高館にある石碑
高館にある石碑。「おくのほそ道」の平泉のくだりが書いてある。 「三代の栄耀一睡の中にして、・・・」である。

 写真は高館にある石碑。上の文面が書いてある。
 それにしても東北は古来より中央からみると討伐か同化の対象だった。蝦夷や藤原氏や近くは会津。ともに横暴な時の権力の前に滅ぼされてしまった。東北は西国・中央に比べると時間の流れがゆっくりとしているため、なかなか時流についていけないといううらみがある。それが権力の掌握をたくらむ西国・中央には反動のように見えたのだろう。

 北上川と高館というと、私はなぜか 「やはらかに 柳青める北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに 」(啄木)をイメージしてしまう。こういう感傷もきらいではない。もう一つ、忘れられない青春の歌。
「Tertiary the younger Tertiary the younger
Tertiary the younger Mud-stone
あおじろ日破れ あおじろ日破れ
あおじろ日破れに おれのかげ
Tertiary the younger Tertiary the younger
Tertiary the younger Mud-stone
なみはあをざめ 支流はそそぎ
たしかにここは 修羅のなぎさ」(賢治「イギリス海岸の歌」)

義経堂
高館からさらに一段高いところに小さな義経堂がある。

 

義経堂

 兄の頼朝に追われ藤原秀衡をたよって平泉に落ち延びた義経は、ここを住居としたという。義経は何を考えて生き延びていたのか。静かな余生か、軍勢を率いて鎌倉攻めか。そもそも義経は自分がなぜ兄頼朝より追討されぬばならないのか、その理由が分かっていたのだろうか。

 堂の中には義経の像が安置されている。
芭蕉は義経=判官びいきである。義経は政治的な甘さのために兄頼朝の反感をかって追討の憂き目にあってしまったが、忠義勇を愛する芭蕉には、義経の最期があわれでならない。
芭蕉は、平清盛や木曾義仲も大好き。ともに歴史の中で一つの時代を築きながらも滅んでいった人たち。芭蕉は「兵どもが夢」をいとほしくてならない。志を抱きながらも歴史の叢に沈んでいった人の生のはかなさに、いつまでも涙をながすのだった。

歴史とは涙の尽きぬ泉にして

義経堂の中の義経像
義経堂の中には義経像が安置されている。

 義経の像。
 顔がマンガちっくで、悲劇の主人公という感じがしない。だがよく見ると凛々しさのなかにも憂いがみえるような気がする。歴史に翻弄された哀しさのような影がさしていた。
 芭蕉もこの義経像をみたのだろうか、どうだろうか。芭蕉の格調高い俳文とはイメージがあわないような気がするのだが、これは東北的なおおらかさというものだろうか。

戦闘者その後の生のはかなさは

モンゴルの草原駆け抜く義経像

薫風に義経が髪なびかせて



高館の下の道路沿いにある「卯の花清水」
 卯の花清水。碑文には次のようにある。
 「文治五年四月、高館落城のとき、主君義経とその妻子の悲しい最後を見とどけ、死力を尽して奮闘し、敵将諸共燃えさかる火炎の中に飛び込んで消え去った白髪の老臣、兼房。年六十六、元禄二年五月、芭蕉が、門人曾良とこの地を訪れ、「夏草」と「卯の花」の二句を残した。
白く白く卯の花が咲いている。ああ、老臣兼房奮戦の面影がほうふつと目に浮かぶ。
古来、ここに霊水がこんこんとわき、里人、いつしか、卯の花清水と名付けて愛用してきた。
行きかう旅人よ、この、妙水をくんで、心身を清め、渇をいやしそこ「卯の花」の句碑の前にたたずんで、花に涙をそそぎ、しばし興亡夢の跡をしのぼう。
昭和五十年卯月三十日
平泉町観光協会建立 」

毛越寺の庭園と伽藍の礎石。

 

毛越寺(もうつうじ)

 開山は慈覚大師円仁、近年になって復興された岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗の寺院。850年(嘉祥3年)、中尊寺と同年に円仁が創建した。
 奥州藤原氏第二代藤原基衡夫妻、および子の第三代藤原秀衡が壮大な伽藍を建立した。
 今は、すべて礎石を残すのみ。

 芭蕉が毛越寺を訪ねたという記録はないが、句碑がある。

「夏草や 兵どもが 夢の跡」

 芭蕉直筆ということだが、ほとんど読めない。「兵どもが 夢の跡」というところが、廃寺同然だった毛越寺にもぐっとくるところか。
 境内には新渡戸稲造が英訳した「夏草や」の句碑がある。
「The summer grass
'Tis all that's left
Of ancient warriors' dreams.」

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