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![]() 歌枕の笠島 |
笠島はいずこ [地図] 笠島はいづこさ月のぬかり道 藤原実方は、藤原一門のなかでも由緒ある家柄の生まれで、美貌と風流を兼ね備えた貴公子、源氏物語の光源氏のモデルともいわれている。「歌枕見て参れ」との勅命で各地の名所旧跡を訪ね歩いた。名取郡笠島道祖神の前で落馬し、それがもとでこの地でなくなったと伝えられている。 |
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![]() 中将実方朝臣の墓。小さな盛り土があわれ。 |
現在は案内板も出ていて、整備されているので探しやすいが、中将実方朝臣の墓は写真のような、小さな盛り土でしかない。木の囲いがあるからそれとわかるが、案内と囲いがなければ何がなんだかわからない。当時は竹やぶやすすきに覆われていたのではないか。これでは見つけられない。仕方ないので、芭蕉も「いずこさ月のぬかり道」と調子のよい句をひねった。 芭蕉の句のせいで、案内板もできて、塚はよく整備されていて、雰囲気は楽しむことができる。入り口には西行の歌に寄せて、気持ちばかりのススキが植えられていた。 |
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![]() 「あやめ草」のイメージ 。薬師堂の境内ではなく別の場所で撮ったもの。 |
宮城野
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薬師堂の境内。こんな碑がたっていた。 |
芭蕉は仙台にて、画工の加右衛門に案内されて、歌枕や名所を案内してもらった。国分寺跡に建つ薬師堂やつつじヶ丘の天満宮を訪れた。 句碑の横に池らしいものがあるが水がない。下の写真のように完全に乾いていた。池にはあやめ草があった。 |
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薬師堂の境内にある「あやめ草足に結ばん草鞋の緒」の石碑 |
ここに水がありあやめが咲いていたなら、あやめ草足に結ばん草鞋の緒 の風情も最高だろうが、おしい。 旅にあって、「風流のしれ者」に出会えた感動を胸に、芭蕉の足は多賀城に向かった。 |
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![]() 多賀城跡の南門のあたりにある「壷の碑」を囲ったお堂 |
壷の碑(つぼのいしぶみ) 壷碑 市川村多賀城に有り。 多賀城跡の南門のあたりに、「壷の碑」を囲ったお堂がある。現在は公園になって整備されている。 |
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![]() 多賀城跡の南門のあたりにある「壷の碑」を囲ったお堂 |
この石碑の内容は、多賀城の四方の国境からの距離を表し、724年に大野朝臣東人が築いたものを、762年に蝦夷征伐府長官の恵美朝臣朝かりが修復して石碑を建立したという。芭蕉はこの碑を読んでやや大げさなくらいに感動している。 みちのくの哀しさつたえよ壷の碑 |
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![]() この「壺の碑」=多賀城碑は国の重要文化財に指定されている。贋作説もあったが書体等の分析から762年頃の作であることが証明されたという。 多賀城の記念碑としては間違いないようだが、「壺の碑」かどうかは別のことのようだ。青森県東北町の坪(つぼ)という集落の近くに、千曳神社(ちびきじんじゃ)があり、ここには「日本の中央」と記された石碑があるという。だが、坂上田村麻呂は東北町のあたりには来なかったという。 |
クリックすると拡大する。 この拓本は、 このあたりで案内をしてくれたボランティア・ガイドさんからいただいたもの。市役所の職員さんだという。 |
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![]() 多賀城跡。礎石が点在する広場があるだけで、他には何もない。 |
多賀城跡 多賀城について芭蕉は何もいっていない。 歴史とは草にうずもるパンドラの箱 |
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歴史の叢に沈んでいた多賀城。 |
芭蕉が多賀城を訪ねたときには、「多賀城跡」は草むらに隠れていたのだろう。 「壺の碑」の生々しい物証とは対照的に、熱風が多賀城跡に吹きわたっていた。 |
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![]() 「すえの松山」 |
末の松山 [地図]
多賀城市の海に近い丘にある。その昔、ここは海岸べりの松林だったのだろう。 芭蕉の時代と同様、今も墓地の中に2本の松がたっているばかり。風情はあまりないが、芭蕉は「末の松山は寺を造りて末松山(まつしようざん)」「野田の玉川・沖の石」を訪ねた。 君をおきて あだし心をわがもたば すえの松山波もこえなむ (古今和歌集 東歌) 芭蕉は、「松のあひあいみな墓原(はかはら)にて、はねをかはし枝を連ぬるちぎりの末も、終(つひに)はかくのごときと、悲しさもまさりて、塩竈の浦に入相(いりあひ)のかねを聞。」といっている。墓の原に立つ松をみて、「ちぎりの末も、終はかくのごとき」と、人の世の恋の約束のはかなさの終の姿として描いている。 |
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和泉三郎が寄進した神灯篭。 灯篭の扉の部分を拡大したもの。「文治三年七月十日和泉三郎忠衡敬白」と読めるようだ。 |
塩竈神社 [地図]
芭蕉は、塩竃神社に詣でて、和泉三郎の「勇義忠孝」と並んで、そのたたずまいの美しさを「吾が国の風俗」として、最大級の表現でほめている。 「国守再興せられて、宮柱ふとしく、彩椽(さいてん)きらびやかに、石の階(きざはし)九仭(きうじん)に重なり、朝日あけの玉垣(たまがき)をかがやかす。かゝる道のはて、塵土(ぢんど)の境(さかひ)まで、神霊あらたにましますこそ、吾が国の風俗なれと、いと貴けれ。」 本殿の左右に神灯篭がある。その右側の灯篭が和泉三郎が寄進したもの。 「五百年来の俤(おもかげ)、今目の前にうかびて、そぞろに珍し。渠(かれ)は勇義忠孝の士也。」 藤原秀衡の三男和泉三郎は忠衡といい、父の秀衡が死んだあと、一族がことごとく反逆して義経を攻めたのに対して、ひとり義経について高館で戦死した。芭蕉は、父の秀衡の遺命を守って義経を捨てなかったのは「考」、よく義経に従ったのは「忠」、兄に従わず義経に従ったのは「義」、終に戦死したのは「勇」として「勇義忠孝の士」として和泉三郎をたたえた。 もともと義経びいきの芭蕉は、その義経に殉じた和泉三郎をせいいっぱいに誉めている。 |
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![]() 松島の雄島 |
松島 [地図]
芭蕉は、塩竃神社参詣を終えて、船で松島に向かい、雄島の磯についた。。
写真は雄島。 |
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抑(そもそ)も事ふりにたれど、松島は扶桑第一の好風(かうふう)にして、凡(およそ)そ洞庭(どうてい)西湖(せいこ)を恥ぢず。東南より海を入れて、江の中三里、浙江(せつかう)の潮(うしほ)をたゝふ。島々の数を尽して、欹(そばだ)つものは天を指し、伏すものは波に匍匐(はらば)ふ。あるは二重にかさなり、三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。負へるあり抱けるあり、児孫(じそん)愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉(しよう)汐風に吹きたわめて、屈曲おのづからためたるが如し。其の気色よう然として、美人の顔を粧(よそほ)ふ。ちはやぶる神のむかし、大山ずみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆を揮(ふる)ひ詞を尽さん。
雄島が磯は地つゞきて、海に出でたる島也。雲居(うんこ)禅師の別室の跡、坐禅石(ざぜんせき)など有り。はた、松の木陰に世を厭ふ人も稀/\見え侍りて、落穗・松笠など打けぶりたる草の庵閑に住みなし、いかなる人とは知られずながら、先づ懐かしく立寄るほどに、月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。江上に帰りて宿を求むれば、窓をひらき二階をつくりて、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙(たへ)なる心地はせらるれ。 松島や鶴に身をかれ時鳥(ほとゝぎす) 曾良 予は口をとぢて眠らんとしていねられず。旧庵をわかるゝ時、素堂、松嶋の詩あり。原安適、松がうらしまの和歌を贈らる。袋を解てこよひの友とす。且杉風濁子が発句あり。 |
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丘の上から見た松島。 松島は上から見ないと島の形が見えない。 4つの洞門をもつ鐘島。 |
芭蕉は、イメージどおりの絵のような風景を前に、句にしようもなかったのかもしれない。いや芭蕉ほどの達人が句の一つもひねられない筈はない。その気になれば、それなりの句は作れただろう。 松島や鶴に身をかれ時鳥(ほとゝぎす) 曾良 この句は曾良の句としているが、芭蕉の句だろうといわれている。時鳥よ、松には鶴がよく似合うよ、といった程度の句である。松島を愛でる句としてはこれでもよいのだろうが、芭蕉の深い情趣をともなう風流ではない。 島々や千々に砕きて夏の海 芭蕉の「おくのほそ道」における表現意識がどうしても納得せず、意図的に句を作らなかったのではないか。 |
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![]() 雄島より見た松島。訪ねた松島は雨にうち煙っていた。 |
雄島には庵のあとは見えないが、写真のように 風光明媚。 |
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| poto by miura 2005.9 mail:お問い合わせ 須賀川〜飯塚へ | ||